伝記
ヤフヤー・ムウタスィムは、衰退期のムワッヒド朝でカリフを称した人物である。正式な名はアブー・ザカリーヤー・ムウタスィム・ヤフヤー・イブン・ナースィルといい、第四代カリフのムハンマド・ナースィルの子で、のちにカリフとなるユースフ二世は兄にあたる。ムワッヒド朝の何代目のカリフにあたるかは、第八代とも第九代ともされる。彼の権威を認めた領域は、アトラス山脈とマラケシュの間に限られたという。生年は不明で、若いころのことも伝わっていない。
一二二四年、アブドゥッラー・アーディルがカリフを宣言すると、ヤフヤーはこれに反対して兵を挙げた。ベルベル人の有力部族マスムーダの多くが彼を支持したが、アーディルがアンダルスから軍を呼び戻したため、打ち負かすことはできなかったという。一二二七年、叔父にあたるアーディルは、モロッコのマラケシュで有力な部族長たちに殺された。この部族長たちはヒンタータ族とティンマル族の首長で、はじめはアーディルを支えていながら、のちに退位させたのだった。彼らは当初、アンダルスで反乱を起こしていたアーディルの弟イドリース・マアムーンを推したが、これを取り下げ、十月にヤフヤーを新しいカリフとして擁立した。
しかし一二二八年、マアムーンがイベリア半島からモロッコに渡り、十月にはヤフヤーはマラケシュを追われた。即位から七か月ほどだったとされる。マアムーンはその後、イブン・トゥーマルト以来のムワッヒド朝の教義の柱を退けた。ヤフヤーに対抗するため、アンダルスの人々の支持を得ようとしたのだろうともいわれる。一二二九年にはチュニジアのハフス朝の君主が数か月だけヤフヤーの権威を認めたが、まもなく貨幣から彼の名を外した。マアムーンによる迫害を避けてヤフヤーのもとへ逃れたマラケシュのムワッヒド家臣も多かったが、やがて都へ戻り、マアムーンの後継者の側についた。一二二九年から一二三〇年の内戦でヤフヤーは敗れ、山地へ逃れた。この争いはムワッヒド朝のイベリア半島での立場を弱め、ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・フードがムルシア首長国を建て、カスティーリャがカセレス、バダホス、メリダを、アラゴンがマヨルカ島を奪う結果につながったとされる。のちマアムーンがセウタを包囲して都を離れた間に、いったんマラケシュを取り戻し、マアムーンが建てさせたカトリックの教会を壊してキリスト教徒を殺したとも伝えられる。マアムーンの子ラシードが都に向かうと、ふたたび退いた。
マアムーンが一二三二年(一二三三年とも)に亡くなると、ヤフヤーは改めて王位を求めた。だが、ラシードの名で知られるマアムーンの子アブドゥル・ワーヒド二世がカリフとして認められ、ヤフヤーは南へ逃れてアトラス山脈で抵抗を続けた。一二三五年の夏、アラブ人とベルベル人のハシュクーラ族がマラケシュを攻めてラシードをシジルマーサへ逃がし、ヤフヤーは都を占領した。ラシードは軍を立て直し、一二三六年にヤフヤーに向けて進軍した。ウンム・ラビーの近くで十日間にわたる戦いののち、ヤフヤーは敗れ、フェズとターザの間に住む遊牧のアラブ人マアキル族のもとへ逃れたが、七月に殺されたという。死んだのは一二三五年とも一二三六年ともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- インゲボルグ (フランス王妃) (1236年没)
- ベイルート領主ジャン・ディブラン (1236年没)
- ルクヌッディーン・フィールーズ・シャー (1236年没)
- フィリップ・ル・シャンスリエ (1236年没)
- ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー (1236年)
同じ地域に関係する人物
- イドリース・マアムーン (1232年没)