伝記
シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュは、トルキスタンのテュルク系遊牧民イルバリー部族の首長の子として生まれた。兄弟間の確執によりブハラの市場で奴隷として売られ、アッバース朝の貴族に買われてバグダードで過ごしたのち、ゴール朝のマムルークであるクトゥブッディーン・アイバクに引き取られた。アイバクから第一の側近として目をかけられ、要衝バダーウーンなどを領地として与えられた。1210年にアイバクが落馬事故で亡くなると、後継に指名されていた子のアーラム・シャーが跡を継いだが、悪政を布いたため、デリーの貴族はイルトゥトゥミシュを支持した。彼は進撃してきたアーラム・シャーを討って王位に就いた。
即位への抵抗は少なくなかった。アイバク派やムハンマド・ゴーリー派の貴族のほか、ムルターンを拠点とするカバーチャやガズナのユルドゥズといったアイバクのかつての同僚たちがデリーをうかがい、ベンガルやラージプートの国々も独立していた。彼はまずカバーチャやユルドゥズとの戦いを避けてデリー近辺の安定に努め、反対派の貴族をジュードで破り、ヒンドゥー教徒の反乱も鎮めた。やがてホラズム・シャー朝が西北のユルドゥズやカバーチャを脅かすと、侵入を防ぐためシンドに兵を進め、1216年にはガズナを奪われて弱ったユルドゥズを攻撃して殺した。1222年には、モンゴルに追われたホラズム・シャー朝のスルタン、ジャラールッディーンが亡命を打診してきた。彼はモンゴルの標的となることを警戒して丁重に断り、ムルターンへの移動を勧めた。ジャラールッディーンがカバーチャの領土と軍に損害を与えると、イルトゥトゥミシュはカバーチャを助けるために動き、最終的には北インドの諸勢力と同盟してホラズム・シャー朝の軍をインドから追い出した。
その間、東ではギヤースッディーン・イワズ・キルジーがベンガルとビハールで勢力を築いていた。1225年にイルトゥトゥミシュは自らベンガルに出兵し、一時はイワズを従属させたが、帰国するとイワズは再び独立した。1226年には長子ナースィルッディーン・マフムードが派遣され、イワズを破って殺した。1228年にはホラズム・シャー朝の侵入で弱ったカバーチャをインダス河畔で破り、国境をインダス川沿岸まで広げた。モンゴルの侵入に備え、北方の防備も整えた。
1229年2月、バグダードから使節団がデリーを訪れ、イルトゥトゥミシュはカリフからスルタンの称号と支配権を認められた。同年、後継者と目された長子マフムードが早世した。ほかの息子に後継にふさわしい者を見いだせなかった彼は、娘のラズィーヤを後継者とすることを腹心の貴族と神学者に諮り、貴族の一応の賛同を得て、この年に指名した。1230年にはベンガルへ2度目の親征を行い、1233年にはマールワーのウッジャインとヴィディシャーを制圧し、メーワールの王都ナーグダーも占領した。治世を通じて、王権を強めるために同輩の貴族の力を抑え、信頼する40人のトルコ人奴隷を高位に就けた。彼らは「チャハルガーニー(40人)」と呼ばれた。神学者が国政に過度に介入することは許さなかった。
1236年4月29日、イルトゥトゥミシュはデリーの宮殿で亡くなった。しかしラズィーヤへの指名は実行されず、廷臣と正妃シャー・トゥルカーンは、ルクン・ウッディーン・フィールーズをスルタンに擁立した。ラズィーヤが即位したのは、その短い治世のあとである。アイバクの時代に着工されたクトゥブ・ミナールは、彼の時代に完成した。廟はその側にあり、現存するデリー・スルタン朝の支配者の墓としては最古とされる。
同じ年に亡くなった人物
- ベルリンギエーリ (1236年没)
- ヤフヤー・ムウタスィム (1236年没)
- ルクヌッディーン・フィールーズ・シャー (1236年没)
- ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー (1236年)
- フィリップ・ル・シャンスリエ (1236年没)
同じ地域に関係する人物
- Sarla Thakral (2008年没)
- ビームラーオ・アンベードカル (1956年没)
- モハメド・ヤクブ・ハーン (1923年没)
- Biju Patnaik (1997年没)
- アラー・ウッディーン・ハルジー (1316年没)