伝記
ポントスのダレイオスは、ポントス王国の君主で、イラン系とギリシア系マケドニア人の血を引く人物である。ポントス王ファルナケス2世と、そのサルマタイ人の妻との間に生まれた最初の子で、妹にデュナミス、弟にアルサケスがいた。父方の祖父母は、ポントス王ミトリダテス6世と、その最初の妃で姉妹でもあったラオディケである。
この人物について知られることはごくわずかで、生年や若いころのことは分かっていない。確かな記録は、アッピアノスが、マルクス・アントニウスによってポントス王に任じられたと述べている点にほぼ限られる。アッピアノスによれば、アントニウスは自分の支配下にあるローマ帝国東方に、貢納を条件として従属王を置いた。アナトリアでは、ポントスにダレイオス、キリキアの一部にポレモン、ピシディアにアミュンタスが任じられた。これはパルティア遠征の準備をしていた時期で、アントニウスがアテナイで冬を越す前のことだという。任命の年は紀元前37年とする説明のほか、紀元前39年とする説明もあり、在位も紀元前39年から37年とされることがある。
ダレイオスはローマの優位を認め、貢納を支払うことを約束した。その支払いやアントニウスへの返礼のために、ミトリダテス家の旧来の政策に頼り、王領を拠点として都市と対立させる方針をとったともいわれる。かつての要塞を活用し、ヘレニズム的な課税制度を復活させようとしたため、諸都市への税の圧力が強まり、その自立が損なわれた。この時期にアミソスでは僭主ストラトンが権力を握り、都市は悲惨な状態に陥ったとされる。こうした内政への不人気が、アントニウスが後任を探す動きにつながったという見方もある。
治世は短く、1年に満たなかったとみられる。ダレイオスがどのような事情で王位を失ったのかは分からず、死んだのか、殺されたのかも定かでない。ストラボンによると、弟のアルサケスがローマの長官の許可なく王位をうかがう動きを見せたため、ポレモンとコマナの神官リュコメデスに攻められた。アルサケスはサギュリオンの要塞から山へ逃れたが、食糧も水もなく飢えたあげく、捕らえられて殺された。ポレモンは、のちパルティアに対するアントニウスの戦いに加わった紀元前36年には、カッパドキアに接するポントスの王と呼ばれている。その功への報いとして王に任じられたのだろうと考えられている。
ダレイオスの死とともにミトリダテス家の王統は絶え、ポントスは別の従属王のもとで再び統合されたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- グナエウス・コルネリウス・レントゥルス (紀元前97年の執政官) (紀元前 100年(推定))
- Athenodoros Cananites (紀元前100)
- テウトボド王 (紀元前100)
- アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前38年の執政官) (紀元前 100年(推定))
- ガイウス・カルプルニウス・ピソ (紀元前67年の執政官) (紀元前 100年(推定))
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