伝記
イブン・アル=アスィールは、モースルのザンギー朝やアイユーブ朝の時代に活躍した歴史家である。本名はイッズッディーン・アリー・イブン・ムハンマドといい、前近代のイスラーム世界を代表する歴史家の一人とされる。1160年に、ジャズィーラ・イブン・ウマル(現在のトルコのジズレ)を治める行政長官の次男として生まれた。アラブ人のバクル族の一支族シャイバーン家の出身とされ、クルド系だったとする説もあるが、アラブ系とする見方が有力である。兄弟に、マジュドゥッディーンとディヤーッディーンがいた。21歳か23歳のとき、父の転任でモースルに移り、以後ここを生活の本拠とした。当時のモースルは、経済と学問の中心として栄えており、ここでハディース学、イスラーム法学、歴史学、数学などを学んだ。兄弟はザンギー朝に仕えたが、彼は在野の学者の生活を望み、バグダードやダマスクスなどを旅して知識と見聞を広めた。それでも、代々の恩義を重んじて、ザンギー朝の外交使節をつとめたり、各地でその立場を擁護したりした。のちにはアレッポやダマスクスにも住んだ。
そのころ、ザンギー朝はアレッポとモースルに分裂し、アレッポ側の将軍だったサラーフッディーンがエジプトを征服してアイユーブ朝を立て、1183年にアレッポも征服して、アレッポのザンギー朝は絶えた。1187年、サラーフッディーンがエルサレムの奪還を図り、モースルのザンギー朝と和睦して共同で遠征したとき、イブン・アスィールもモースル軍の一員として加わった。彼はサラーフッディーンの指導者としての力量を高く評価したが、主家を裏切ってこれを征服した彼に対しては、その死後も心を許さなかったといわれる。エルサレム奪還を間近で見たことで、イスラーム世界を中心とした世界史の叙述に関心を抱き、晩年までに二つの歴史書をまとめた。
代表作は『完史』で、天地の創造から1231年までを扱う編年体の通史である。922年まではタバリーの著作の要約と考えられるが、それ以後は彼が編み、多くの地理書や地方史書を参考に、イスラーム世界全体を一つの舞台として描いた。ハディースの形式をまねるのが基本だった歴史学に、大きな変革を与えた。大きな事件を先に書き、小さな事件や訃報はその年の記事の最後に置くなどの工夫もある。信憑性の低いハディースに疑問を示し、問題のある君主を強く批判した。ルーシ族の情報も織り込み、マラズギルトの戦いにルーシ族が参加したことが記録されている。もう一つは、ザンギー朝の歴史を扱う『アターベク王朝における輝かしき歴史』で、王朝の内部にいた父の話や、自分の経験に基づいて、正確に詳しく書かれている。情報源を示す伝承の連鎖がなく、モースルのザンギー朝を正統とみなして、アレッポのザンギー朝やアイユーブ朝に厳しいという問題点はあるが、イブン・ハルドゥーンをはじめ、中世のアラブの歴史家はこれを手本にした。このほか、教友たちの伝記集『森の獅子』などの著作がある。
イブン・アスィールは1232年か1233年に没し、モースルのバーブ・スィンジャール地区の墓地に葬られた。墓は20世紀に建てられ、墓地が近代化のために整理されたあと、道路の真ん中にあった。女性の神秘家の墓という誤った伝説が生まれ、ヤズィーディーの民話では、モースルの太守に嫁いで毒殺された娘の墓とされた。墓は2014年6月に、過激派組織の手でブルドーザーで壊された。
同じ年に亡くなった人物
- トンマーゾ1世・ディ・サヴォイア (1233年没)
- ヘレネ・ヴォン・デンマーク (1233年)
- ヨランド・ド・クルトネー (1233年没)
- フェラン (フランドル伯) (1233年没)
- ボエモン4世 (1233年)
同じ地域に関係する人物
- イブラーヒーム (ウマイヤ朝) (750年没)
- バクル・シドキ (1937年没)
- Adnan Khairallah (1989年没)
- サルゴン2世 (紀元前705年没)
- クサイ・サッダーム・フセイン (2003年没)