伝記
エルジェーベトは、1207年7月7日にハンガリー王女としてシャーロシュパタク城で生まれ、1231年11月17日に24歳で没した。父はハンガリー王エンドレ2世、母はメラーノ公女ゲルトルードである。ドイツ名でエリーザベト・フォン・テューリンゲンとも呼ばれ、のちに聖人とされて聖エリザベートの名で知られる。兄弟は六人おり、のちのハンガリー王ベーラ4世や、ブルガリア皇帝妃となったマリア、アラゴン王ハイメ1世の妃ヨランダらがいる。
4歳のとき、テューリンゲン方伯家のルートヴィヒと婚約し、テューリンゲンへ連れて来られた。当初の婚約者に目されていた兄ヘルマンが早世したため、弟のルートヴィヒが相手となったのである。ルードヴィング家とヴェッティン家の対立といった帝国内の政情をにらんだ縁組で、王女であり東ローマ皇帝とも縁続きの彼女は、貴重な政略結婚の切り札だった。1221年、アイゼナハで14歳のときにルートヴィヒ4世と結婚し、仲睦まじい結婚生活を送って三児をもうけた。1223年ごろ、最初のフランシスコ会修道士がテューリンゲンを訪れ、彼女はアッシジのフランチェスコの教えに触れて信仰心を篤くした。宮廷を抜け出して当時忌み嫌われていたレプラ患者の救済に当たり、非難されたときには、夫が妻をかばったという。1226年には、高名な修道士で異端審問官のコンラート・フォン・マールブルクを宮廷に迎えた。
1227年、夫が第6回十字軍に従軍する途中、疫病のためオトラントで没し、彼女は若くして未亡人となった。長男ヘルマンはまだ5歳で、夫の弟ハインリヒ・ラスペが摂政となった。おそらく化粧料の扱いをめぐって、ハインリヒあるいは姑に疎まれ、ヴァルトブルク城を追われたとされる。アイゼナハでは豚小屋に住むほど身をやつしたとも伝えられる。それを聞いた伯母が迎えに行き、子供たちとともにバンベルク城へ送った。伯父は再婚を勧め、独身だった皇帝フリードリヒ2世も候補にあったというが、彼女は拒んで貞節を守った。
1228年に夫の遺骨を修道院に葬ると、師父コンラートのいるマールブルクへ赴いた。フランシスコ会に入り、化粧料の代金として受け取った2000マルクを寄進して病院を建て、貧民や病人のために尽くした。コンラートの厳しい監督のもとで自身も貧しい暮らしをし、娘ゲルトルートは2歳で引き離されて修道院に送られた。
墓には死の直後から奇跡が起こるとされ、巡礼が押し寄せた。召使イルムガルトの証言では、遺体を3日間公開すると、聖遺物として顔を覆っていた布や爪、指まで切り取って持ち去る者がいたという。教皇は翌年に調査団を置いたが、1233年にコンラートが殺害されて頓挫し、義兄弟のコンラート・フォン・テューリンゲンの尽力で再開した。1235年の聖霊降臨祭、教皇グレゴリウス9世が彼女を列聖した。翌1236年には皇帝フリードリヒ2世が臨席して遺体の改葬が行われ、彼女の頭骨は皇帝自らの手で冠を被せられ、聖遺物容器に納められた。テューリンゲン、ヘッセン、未亡人、病人などの守護聖人とされ、ドイツ騎士団は墓所の上にエリーザベト教会を建てて1283年に完成させた。ドイツ最古級のゴシック建築とされる。
16世紀の宗教改革の際には、ヘッセン方伯フィリップが新教に転じてこの教会を改め、聖遺物崇拝をやめさせるため遺骨を棺から取り除かせた。彼女の頭骨と脛骨は、のちにウィーンの聖エリーザベト病院に祀られたとされる。2007年の生誕800年には、ゆかりの地ヴァルトブルク、アイゼナハ、マールブルクで大規模な催しが開かれた。
同じ年に亡くなった人物
- ヴァルデマー若王 (1231年没)
- ジャラールッディーン・メングベルディー (1231年没)
- 趙汝适 (1231年没)
- ルートヴィヒ1世 (バイエルン公) (1231年没)
- ベアトリス2世 (ブルゴーニュ女伯) (1231年没)
同じ地域に関係する人物
- マグダレーナ・フォン・ブランデンブルク (1582-1616) (1616年没)
- エルンスト2世・レオポルト (ヘッセン=ローテンブルク方伯) (1749年没)
- ヘルムート・ヴァルヒャ (1991年没)
- ディオニシオス・カスダリス (1931年没)
- カロリーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1821年没)