HISTORICAL PERSON · 1230年没

オタカル1世 (ボヘミア王)

ボヘミア王。皇帝と対立王の争いを利用してボヘミア王号を得て、金印勅書によりボヘミア王位が世襲であることを保証させた。

生涯
1230年没
死亡地
チェコ共和国(プラハ)
出生地
チェコ共和国(プラハ)
出典
世界地図
チェコ共和国(プラハ)

伝記

プシェミスル・オタカル1世は、1155年ごろに生まれ、1230年12月15日に没した、ボヘミア公(在位1192年から1193年、1197年から1198年)で、のちにボヘミア王(在位1198年から1230年)となった。ボヘミア公ヴラジスラフ2世と、テューリンゲン方伯ルートヴィヒ1世の娘ユーディトの子である。若いころのオタカルは、国中に広がる無政府状態のなかで過ごし、何度かの権力闘争ののち、1192年に、皇帝ハインリヒ6世からボヘミアの統治者と認められた。しかし、ホーエンシュタウフェン家を失墜させようとするドイツ諸侯の陰謀に加わったため、1193年に君主の地位から追われ、ボヘミアは従弟のインジフ・ブジェチスラフに与えられた。1197年の彼の死後は、弟のヴラジスラフ・インジフが跡を継いだが、同じ年、オタカルは弟から君主の座を奪い、弟にはモラヴィアを与えた。

ホーエンシュタウフェン家のフィリップと、ヴェルフ家のオットー4世の間で、ドイツ王位をめぐる争いが起こると、自らの地位を高めたいオタカルは、ボヘミア王の称号を名乗って、マインツで戴冠した。フィリップは、ボヘミア貴族の支持を得るため、オタカルの王号を認めた。1198年か1199年に、プラハ司教から近親を理由に結婚の無効を認められ、マイセン辺境伯オットーの娘で、ヴェッティン家出身の王妃アーデルハイトと離婚して、ハンガリー王ベーラ3世の年若い末娘コンスタンツィアと再婚した。教皇はこの決定を認めず、プラハを大司教区にすることも拒んだ。

1200年に、オットー4世が優位に立つと、オタカルはフィリップとの同盟を破って、ヴェルフ家支持にまわった。オットー4世と教皇インノケンティウス3世は、のちにオタカルを世襲のボヘミア王と認めた。フィリップは、裏切られたボヘミアへの侵入を繰り返し、オタカルを屈服させた。1204年に和平が結ばれ、オタカルは貢納金を支払わされた。フィリップが殺されると、オタカルはオットー4世の側についた。オットー4世と教皇が仲違いし、1211年に教皇がオットー4世を破門すると、オタカルは、シチリア王フリードリヒ2世をドイツ王に推す側に回った。1212年、フリードリヒ2世は、シチリアの金印勅書をボヘミアに発布し、ボヘミア王位がオタカルとその子孫に属することを保証した。ボヘミア王位は、皇帝の任命によって決まることはなく、帝国議会に出席する義務を負うだけとされた。ボヘミア王は、帝国内の指導的な選挙侯となり、皇帝がローマで戴冠を受ける旅には、護衛の300人の騎士を提供することになった。

オタカル1世の治世には、ボヘミアにドイツ人の移民が始まり、それまで森に覆われていたこの国に、都市の成長が見られた。1226年、オーストリア公レオポルト6世が、オタカルの末娘アネシュカと、フリードリヒ2世の長男でシチリア王のハインリヒとの縁談を壊したことに怒り、オーストリアとの戦争を起こした。オタカルは、今度はアネシュカをイングランド王ヘンリー3世と結婚させようとしたが、フリードリヒ2世が禁じた。当時男やもめだった皇帝は、アネシュカを再婚相手に選ぼうとしたが、アネシュカ本人は、政略結婚の駒として扱われるのを嫌い、教皇の助言もあって、修道院に入った。

オタカル1世は、1230年に没し、ボヘミア王位は、後妻との間の息子ヴァーツラフ1世が継いだ。最初の妻アーデルハイトとの間には4人の子が、コンスタンツィアとの間には9人の子が生まれた。

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