伝記
フェルディナン・フォッシュは、1851年10月2日、スペイン国境に近いフランス南西部の町タルブに生まれた陸軍軍人である。父は公務員で、母はナポレオン戦争期の軍人の娘だった。家は質素ながら信仰の篤い中流のカトリック家庭で、幼いころから勉強を好み、軍事史や戦略に強い関心を示して、軍事書をよく読んだという。タルブ、ロデーズの学校を経て、サン=テティエンヌとメスのイエズス会学校に学んだ。教師の一人は「幾何学的な頭脳だ、ポリテクニークのために生まれてきた」と評したと伝えられる。兄弟のジェルマンはイエズス会の司祭となったが、反教権的な共和国政府のもとでは、これが昇進の妨げになったかもしれないとされる。
1870年、エコール・ポリテクニークの入学試験に向けて勉強していたとき普仏戦争が始まり、志願兵として従軍した。しかし戦闘に加わらないまま戦争が終わったため、メスに戻って学業を続け、1871年11月に同校へ入学した。のち大尉に昇進し、1885年にエコール・ミリテールに入って1887年に卒業した。1895年からは同校で軍事史の講師を務め、ナポレオンの戦術を近代の状況に合わせて更新する軍事思想家として、『戦争の原則』『戦時統帥論』を著した。1898年までに中佐、1903年に大佐となった。ドレフュス事件の余波で1900年ごろに講師を退いたが、のちに首相クレマンソーに重用され、1908年にはエコール・ミリテールの校長に就任した。1907年に少将、1911年に中将に進み、第13歩兵師団長、第8軍団長、1913年に第20軍団長を歴任した。
第一次マルヌ会戦の直前、1914年8月29日に新設された第9軍を指揮し、マルヌの勝利に大きく貢献した。10月4日には北部軍集団司令官となり、1915年から1916年にかけてソンムの戦いに参戦した。ソンムの攻勢の失敗でフランス軍最高司令官ジョゼフ・ジョフルの解任が論じられると、ジョフルの支持者は次期最高司令官と目されたフォッシュが健康を害しているとの噂を流した。結局ジョフルは解任されたが、後任はフォッシュではなくニヴェルになった。フォッシュはスイス方面の防備強化、次いでイタリアとの交渉に派遣された。1917年5月にニヴェルが更迭されてペタンが後任となると、首相パンルヴェにより参謀総長に起用された。
1918年3月26日、連合国軍総司令官に就任し、8月6日にフランス元帥の称号を受けた。11月の休戦協定には連合国代表の1人として署名した。1919年にイギリス陸軍元帥、1923年にポーランド元帥となり、イギリスからはメリット勲章も授与され、アカデミー・フランセーズ会員にも選ばれ、1921年のアメリカ合衆国訪問では大歓迎を受けた。パリ講和会議では、ライン川左岸の併合やドイツの軍備撤廃を主張して、イギリスや自国の首相クレマンソーと対立した。ヴェルサイユ条約には批判的で、チャーチルの回顧録に「これは平和などではない。たかだか20年の停戦だ」という言葉が引かれているが、真偽は定かでないともされる。1925年から1926年にはドイツ非武装監視委員会会長を務め、1929年3月20日にパリで没して、オテル・デ・ザンヴァリッドに葬られた。死後、未完成の『回顧録』が1931年に出版された。
同じ年に亡くなった人物
- アルノ・ホルツ (1929年没)
- エミール・ルーベ (1929年没)
- Jozef Murgas (1929年没)
- ワイアット・アープ (1929年没)
- カール・ヴェルスバッハ (1929年没)
同じ地域に関係する人物
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- ピエール=ポール・プリュードン (1823年没)
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- ジャン2世 (アランソン公) (1476年没)
- カロリーネ・フォン・ヘッセン=ローテンブルク (1741年没)