伝記
エミール・ルーベは、1838年末、フランス南東部ドローム県のマルサンヌに生まれた政治家である。父オーギュスタンは農民や地方の名士を出す家の出で、マルサンヌの市長を数度務めた。兄は医師になり、弟のエミールは農場の収入に支えられてヴァランスとパリで学び、法学を修めた。少年期の1851年には、寄宿先の窓から、ルイ・ナポレオンのクーデターに反対する蜂起軍と軍隊の戦闘を目撃している。1862年にパリで弁護士業に就き、翌年に法学博士の学位を得て、モンテリマールに移った。1869年にマリー・ルイ・ピカールと結婚し、4人の子をもうけた。法学を学ぶなかで共和派のレオン・ガンベタと知り合い、1870年の普仏戦争の危機のさなかにモンテリマール市長となって、以後ガンベタの支持者となった。
1876年にモンテリマールから代議院議員に当選し、アルベール・ド・ブロイ公爵内閣への不信任に賛成した363人の一人となった。この件で政府に市長を解任されたが、かえって支持を高めた。代議院では教育関連の法案で活躍し、初等教育の無料化、義務化、世俗化を進めた。1880年にはドローム県議会の議長となり、第2次ジュール・フェリー内閣の植民地拡張政策を支持して穏健共和派の有力者となった。1885年に元老院議員に当選し、1887年12月からのティラール内閣で公共事業相として入閣した。1892年、友人の大統領カルノーの要請で組閣して首相となり、内務大臣も兼ねた。無政府主義者による犯罪やカルモーのストライキへの対処に追われ、ストライキでは仲介役を務めたが、下した裁定が労働者に有利すぎると批判された。パナマ運河疑獄で同年11月に内閣は倒れ、続くリボ内閣で留任したものの、翌年1月に辞任した。
雄弁家としての名声と誠実な人柄を買われ、1896年に元老院議長となった。1899年、フェリックス・フォールの急死に伴う大統領選挙で483票を得て、ジュール・メリーヌの279票を破り当選した。当時はドレフュス事件が世論を二分しており、ドレフュス支持派はルーベを攻撃した。フォールの葬儀の日には、ポール・デルレードが帰営途中の部隊を率いる将軍にエリゼ宮への進軍を求める事件があったが、将軍は応じなかった。同年6月には、反ドレフュス派の男に杖で頭を殴られた。ルーベはワルデック・ルソーに組閣を求め、共和派に結集して国制を守るよう呼びかけ、軍法会議で再び有罪とされたドレフュスに恩赦を与えて事件を収めた。
在任中は政教分離が進み、ワルデック・ルソー内閣とそれに続くコンブ内閣では反教権主義の声が強まって、1905年4月には在バチカンのフランス大使が召還され、同年7月に政教分離法が成立した。外交にも積極的で、1900年のパリ万国博覧会の開幕式に出席し、1901年にはロシア皇帝ニコライ2世を迎え、1902年にはロシアを訪れた。イギリスやイタリア、スペインも歴訪したが、1905年のスペイン訪問では爆弾による暗殺が試みられた。1904年には英仏協商の締結に成功し、イギリスのエジプト占領に介入しない代償として、フランスのモロッコへの主張が承認された。1906年1月に任期を全うして退任し、政界から退いた。1929年12月20日、モンテリマールで没した。
同じ年に亡くなった人物
- セルゲイ・ニルス (1929年没)
- アントニオ・ジョゼ・デ・アルメイダ (1929年没)
- アンドラーシ・ジュラ (子) (1929年没)
- コルネリス・レリー (1929年没)
- ホセ・グティエレス・ゲルラ (1929年没)
同じ地域に関係する人物
- ピウス6世 (ローマ教皇) (1799年没)
- マルタ・ロバン (1981年没)
- フェルディナン・シュヴァル (1924年没)
- フランソワ・ダルランド (1809年没)
- バルテルミー・フォジャ・ド・サン=フォン (1819年没)