伝記
ベルンハルト・フォン・ビューローは、1849年5月3日、ホルシュタインのクライン=フロットベック(現在はハンブルクの一部)に生まれたプロイセン及びドイツの貴族、外交官、政治家で、1900年から1909年まで皇帝ヴィルヘルム2世の下で帝国宰相を務めた。父ベルンハルト・エルンストはデンマークやドイツ諸国の宮廷に仕え、のちビスマルク内閣で帝国外務長官となった。幼いころの家庭教師のほか、父はフランス語、母は英語を話したため、英語とフランス語を身につけたという。1856年、父がフランクフルトの連邦議会にホルシュタインとラウエンブルクの代表として派遣され、同じ場にいたビスマルクの息子ヘルベルトと遊んで大の仲良しになった。13歳のとき、父がメクレンブルク=シュヴェリーン大公国の首席公使となり、一家はノイシュトレーリッツに移った。フランクフルトのギムナジウムを経て、ローザンヌ、ライプツィヒ、ベルリンの大学で学んだ。
普仏戦争には志願して軽騎兵連隊の伍長となり、1870年12月のアミアン近郊の戦闘では、サーベルで狙撃兵に突撃して殺害したと後に語っている。中尉に昇進し、戦後も軍に残るよう誘われたが辞退して、1872年にグライフスヴァルトで法学を修め、官界に入った。1876年にパリの大使館に赴任し、1878年のベルリン会議には書記官として出席し、1880年に二等書記官となった。1884年にはロンドンを希望したが、ビスマルクがロシアとの関係を重視したため、ペテルブルクの大使館の一等書記官となった。1886年に結婚した相手はイタリアの貴族女性で、ピアノの名手でもあった。1888年にルーマニア公使、1893年にイタリア公使を経て、1897年、ホーエンローエ内閣の外相に就任した。皇帝の意を酌んで、いわゆる世界政策としての植民地拡大に大きな役割を果たし、1899年にカロリン諸島の領有に成功した功績で伯爵に叙せられた。
1900年10月16日、ホーエンローエの引退に伴い、後任の帝国宰相に任命された。外交の駆け引きで帝国議会を抑えつつ、清への帝国主義的な進出を進め、議会では政府の外交政策を擁護することに多くの時間を費やした。これは皇帝の数々の失敗を覆い隠すためでもあったという。1902年には農工業保護のため関税改革を実施し、ロシア、ルーマニア、オーストリア・ハンガリーと通商交渉を行った。1905年、皇太子の成婚を記念して侯爵に陞爵した。1906年4月には帝国議会で過労とインフルエンザのため倒れ、復帰後はスキャンダルにも見舞われたが、政権の打撃にはならなかった。
打撃となったのは1908年10月、皇帝がイギリスの新聞「デイリー・テレグラフ」とのインタビューでドイツの内政と外交について語り、その侵略的な内容が内外から激しく批判された事件である。ビューローは責任をとって辞任を表明するが、実際には批判を利用して皇帝の行政権を制限することに成功した。それでも世界政策と海軍拡張は続け、財源確保のため新税を盛り込んだ予算案を出したが、議会に否決された。1909年7月14日、辞任が承認され、後任にベートマン・ホルヴェークが就いた。1914年にはイタリア駐在大使となったが、イタリアとの同盟や中立化には失敗した。帝国議会の多くの議員がベートマン・ホルヴェークの解任とビューローの再登板を望んだが、これを固辞した。1929年10月28日に死去した。80歳だった。
同じ年に亡くなった人物
- ロバート・ルイス・リード (1929年没)
- Richard Reti (1929年没)
- Otto Liebe (1929年没)
- ワイアット・アープ (1929年没)
- ヤチェク・マルチェフスキ (1929年没)
同じ地域に関係する人物
- Arturo Tabera Araoz (1975年没)
- ディオニュシウス (ローマ教皇) (268年没)
- レオポルド・トリエステ (2003年没)
- ユリウス・エヴォラ (1974年没)
- ミシャ・オウア (1967年没)