伝記
北条義時は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、鎌倉幕府の第2代執権である。長寛元年(1163年)に、伊豆国の在地豪族北条時政の次男として生まれた。母は伊東祐親の娘とされ、同母の兄に宗時、同母の姉に政子がいる。義時が15、6歳のころ、政子は伊豆の流人だった源頼朝の妻となった。治承4年(1180年)8月17日、18歳の義時は、父と兄とともに頼朝の挙兵に従ったが、23日の石橋山の戦いで敗れ、宗時が戦死した。時政と義時は甲斐国へ向かって甲斐源氏と行動を共にし、10月には駿河に進攻して、富士川の戦いに勝った。その後、頼朝のもとへ戻り、12月12日、新造の大倉亭の移徙の儀に並んだ。養和元年(1181年)4月、頼朝の寝所を警護する11名に選ばれ、のちに家子と呼ばれる側近の筆頭とされた。寿永元年(1182年)11月、頼朝が愛妾の亀の前を寵愛していることを知った政子が、牧の方の兄に命じて伏見広綱の家を壊させると、怒った頼朝は牧の方の兄の髻を切って辱めた。父時政は怒って一族を率いて伊豆へ立ち退いたが、義時は父に従わず鎌倉に残り、頼朝に称賛された。寿永2年(1183年)に長男の泰時が生まれた。元暦2年(1185年)に源範頼の軍に属して西国へ赴き、文治5年(1189年)には奥州合戦に従軍した。建久3年(1192年)9月25日に、比企朝宗の娘の姫の前を正室に迎え、翌年に嫡男の朝時が生まれた。
建久10年(1199年)に頼朝が死ぬと、義時は、二代の鎌倉殿頼家のもとで政務を談合する十三人の合議制の一員となった。建仁3年(1203年)、頼家が病に倒れると、時政は比企能員を謀殺して比企氏を滅ぼし、頼家を将軍の位から廃して伊豆の修禅寺へ追放した。12歳の実朝が3代将軍に立てられ、義時は大江広元と並ぶ政所別当に就いて、実権を握った。元久元年(1204年)7月、頼家が修禅寺で死に、義時の送った手勢に暗殺されたと伝わる。このころ姫の前と別れ、のち伊賀の方を継室に迎えて、元久2年(1205年)に五男の政村が生まれた。同じ年の畠山重忠の乱で、義時は父と対立した。時政は謀反の罪で重忠を滅ぼしたが、義時は討伐に反対し、牧の方の使者に迫られて渋々同意し、重忠の死に涙したという。閏7月、時政と牧の方は、実朝を廃して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、義時は姉の政子と協力し、三浦義村の力も借りて、時政らを出家させて伊豆へ追放した。朝雅は京で討たれた。時政が去ると、義時は御家人のなかの最有力者となり、政所別当と執権の地位に就いたとされる。ただし、実際の就任は承元3年(1209年)だとする説もある。
建保元年(1213年)2月には、泉親衡の乱をきっかけに、侍所別当だった和田義盛を挑発して反乱に追い込み、滅ぼした。義時は侍所別当も兼ねた。建保4年(1216年)に従四位下に叙され、翌年に右京大夫、陸奥守を兼ねて、父の官位を超えた。建保7年(1219年)1月27日、鶴岡八幡宮で、将軍実朝が頼家の子公暁に暗殺され、源氏の正統が絶えた。義時はそのとき、実朝のすぐ側にはいなかった。その後、義時は幕府の実質的な指導者となり、幕府と朝廷の対立が激しくなった。後鳥羽上皇から義時追討の宣旨が全国に出され、義時は朝敵となったが、幕府軍は京都に攻め上って朝廷を制圧した。後鳥羽を含む3人の上皇を配流し、後鳥羽の孫の懐成親王を廃した。これが承久の乱である。義時は元仁元年(1224年)に没した。
同じ年に亡くなった人物
- アブドゥル・ワーヒド1世 (1224年没)
- 運慶 (1224年没)
- 宣宗 (金) (1224年没)
- 寧宗 (宋) (1224年没)
- ユースフ2世 (ムワッヒド朝) (1224年没)