伝記
マックス・シェーラーは、1874年8月22日、バイエルン王国の首都ミュンヘンに生まれたユダヤ系のドイツの哲学者である。父ゴットフリートはコーブルクの侯爵の農場管理人で、母ゾフィーはミュンヘン育ちのユダヤ人女性だった。敬虔なユダヤ教徒の母は、日曜日に息子をユダヤ人会堂へ連れて行き、儀礼を厳しく身につけさせた。ギムナジウムに入る前に父が亡くなり、生活を伯父のヘルマンに頼ったが、この伯父とは相容れなかった。母が妹のマルチダを虐げていたこともあって家庭から逃れたい思いが募り、14歳でカトリックの洗礼を受けた。
もう一人の伯父エルンストは、ドイツの非ユダヤ的な文化になじもうとしていた人物で、少年の態度を理解してニーチェの作品を紹介した。この読書がのちに「カトリックのニーチェ」と呼ばれる素地になったという。語学や数学は苦手だったが生物学を好み、医学部進学を考えていたところ、伯父がその後押しをした。1893年にミュンヘン大学医学部に籍を置いたものの、翌年には哲学と社会学を学ぶためベルリン大学に移り、ディルタイ、シュトゥンプ、ジンメルらの講義に刺激を受けた。1895年にはイェーナに赴き、教授ルドルフ・オイケンの影響を強く受ける。精神の優位を説くオイケンから、アウグスティヌスやパスカルの偉大さを教えられ、この考え方は晩年の哲学的人間学まで貫かれた。1897年にオイケンの指導で学位論文を書き、道徳を理性ではなく感情や意欲の領域から考える立場を示した。1899年に教授資格論文を提出してイェーナ大学の私講師となった。
私生活は波乱に満ちていた。1人目の妻アメリーは8歳年上で、チロル旅行で知り合い、夫と離婚した彼女と暮らし始めて、1899年10月に入籍した。1905年には息子ヴォルフガングが生まれ、フッサールと面識を得たのもこの頃である。しかし嫉妬深い妻は1906年、大学のパーティーで出版社の夫人を罵って平手打ちする事件を起こし、シェーラーは1907年秋にイェーナを去った。ミュンヘン大学の私講師となり、生涯の親友ヒルデブラントと出会ってミュンヘン学派に加わったが、1908年のイタリア旅行をめぐり、アメリーが新聞社に告げ口して記事が出された。名誉毀損で訴えたが宿帳が証拠に出されて敗訴し、1910年4月、大学から免職され、ドイツ国内での教授資格も剥奪された。1912年2月にアメリーと離婚し、同年12月に指揮者フルトヴェングラーの妹メリットと結婚した。のちに3人目の妻マリア・ショイを迎えている。
ゲッティンゲンに移ると、ヒルデブラントが講義の場を用意してくれた。1912年にはフッサールの現象学年報の編集者4人の一人となったが、やがて考えが合わなくなり、ベルリンに移った。1919年に大学に復帰するまでは、在野の学者・ジャーナリストとして『道徳の構造におけるルサンチマン』などの論考を書き、『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』や『同情の本質と諸形式』といった代表作を著した。価値は妥当するだけでなく現に在るものだとする実質的価値倫理学は、ニコライ・ハルトマンに影響を与えた。
晩年にはカイゼルリンク伯の英知の学校で「宇宙における人間の地位」と題する講演を行い、哲学的人間学を新しい研究分野として提案した。これを機に人間学の研究がドイツ語圏で広がり、教育学では教育人間学として日本にも浸透した。シェーラーは1928年5月19日に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- マウリッツ・スティッレル (1928年没)
- カーリン・ラーション (1928年没)
- Antonin Sova (1928年没)
- Anita Berber (1928年没)
- サイイド・アミール・アリ (1928年没)
同じ地域に関係する人物
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- ヴィルヘルム・クリストフ (ヘッセン=ホンブルク方伯) (1681年没)
- サアドゥーン・ハンマーディー (2007年没)
- エルジェーベト (ハンガリー王女) (1231年没)
- オスカー・クロイツァー (1968年没)