伝記
インノケンティウス3世は、1161年2月22日にイタリア中部アナーニ近郊のガヴィニャーノで生まれ、1216年7月16日に没した第176代のローマ教皇である。在位は1198年から1216年、本名はロタリオ・ディ・コンティという。生家は裕福な伯爵家で、4人の教皇と9人の枢機卿を輩出したことで知られる。1187年から1189年にかけて、パリ大学で神学を、ボローニャ大学で法学を学んだ。法学に通じた彼は、在位中にカノン法の大がかりな整備を進めた。1191年に若くして枢機卿となり、この頃に神学の教科書『人間の悲惨さについて』を著して、以後数世紀にわたって教材として読まれた。
1198年1月8日、ケレスティヌス3世の死去を受けたコンクラーベで、37歳の若さで教皇に選ばれた。前教皇は別の人物を強く推していたが、わずか2回の投票で決まったという。同年のうちにスポレート公国やアンコーナなど旧帝国領への占有回復権を行使し、11月に王母コスタンツァが没すると、シチリア王フリードリヒ、のちの皇帝フリードリヒ2世の後見人となった。1202年に第4回十字軍を提唱したが、海路の輸送をヴェネツィア共和国に頼った軍勢は、輸送料を払えないままその利益に沿って進み、キリスト教徒の町ザーラを占領して略奪した。教皇は激怒して十字軍を破門したものの、軍勢はビザンツ帝国の帝位争いに介入し、1204年にコンスタンティノープルを征服してラテン帝国を建てた。教皇はやがてこれを承認して祝福を与え、ギリシア人主教は罷免された。この出来事によって、東西教会の関係は修復不可能になったといわれる。
帝国の混乱に乗じて、教皇は中部イタリアでの教皇権の回復を図った。ヴェルフ家のオットー4世とホーエンシュタウフェン家のフィリップが帝位を争うと、1201年にオットーを唯一の正当な皇帝と認め、中部イタリアの教会の権利や、シチリア王国に対する教皇の封主権の承認を得た。だがフィリップが優勢となると、破門を解いて戴冠を約束した。そのフィリップが1208年に暗殺されると、1209年にオットーが皇帝に戴冠したが、彼は誓約を破って南イタリアへ侵入したため、1210年に再び破門され、1211年にフリードリヒ2世が擁立されて廃帝に追い込まれた。
イングランドでは、1205年のカンタベリー大司教の死後、後継をめぐる対立が教皇のもとに持ち込まれたが、教皇は両候補を退けて枢機卿ラングトンを任命した。国王ジョンが激しく抵抗したため、1207年にイングランドは聖務停止となり、1209年に王は破門された。1213年、王はイングランドとアイルランドを教皇に寄進して封臣となり、ようやく破門を解かれた。1215年には、王の要望に応えて、成立から2か月ほどのマグナ・カルタを無効と宣言した。フランスでもフィリップ2世の離婚問題で王を破門し、王は1201年に要求に屈した。
1209年にはアルビジョア十字軍を派遣して異端を厳しく取り締まる一方、1210年にはアッシジのフランチェスコと会見し、のちのフランシスコ会を承認した。彼は、神に選ばれた教皇による統治こそ、世襲の王より福音の実践において優れると信じていたとされる。1215年には第4ラテラン公会議を招集し、1,500人が出席した。「教皇は太陽、皇帝は月」の言葉で知られるが、これは公会議の決議ではなく、ビザンツ皇帝あての教令などに見える比喩である。翌1216年、教皇は絶頂期のまま55歳で急死した。
同じ年に亡くなった人物
- イド・ド・ロレーヌ (1216年没)
- エリク10世 (スウェーデン王) (1216年没)
- アンリ1世 (ラテン皇帝) (1216年没)
- ロベール・ド・クラリ (1216年)
- Theodore II of Constantinople (1216年)
同じ地域に関係する人物
- フェルッチオ・ランボルギーニ (1993年没)
- ゲンティウスは (紀元前200)
- アッシジのフランチェスコ (1226年没)
- トーティラ (552年没)
- マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス (253年没)