HISTORICAL PERSON · 1926年没

ライナー・マリア・リルケ

オーストリアの詩人。『新詩集』『マルテの手記』を書き、晩年にスイスで『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』を完成させた。

生涯
1926年没
死亡地
スイス連邦(ヴォー州 / モントルー)
出生地
チェコ共和国(プラハ)
出典
世界地図
スイス連邦(ヴォー州)

伝記

ライナー・マリア・リルケは、1875年12月4日、オーストリア=ハンガリー帝国領のプラハに、ルネ・カール・ヴィルヘルム・ヨーハン・ヨーゼフ・マリアとして生まれた。父は軍人を経て鉄道会社に勤め、母ゾフィーは枢密顧問官の娘でユダヤ系の出自だった。両親の仲はリルケが生まれるころには冷え切っており、9歳のとき母は父のもとを去った。娘を望んでいた母は彼を5歳まで女の子として育てたとされ、その気質は彼の人格に複雑な陰影を落とした。10歳でザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校に入ったが、周囲になじめず早くから詩作を始めた。士官学校は病弱を理由に中退し、リンツの商業学校も1年足らずでやめて、軍人にと期待していた父を失望させた。一方で1891年にはウィーンの雑誌に懸賞応募した詩が載り、翌年から各誌に詩を発表するようになった。

プラハに戻ると、富豪の伯父の援助でギムナジウムの全課程を3年で終えた。この時期に年上の女性ヴァリーと恋に落ち、彼女のために書いた詩は1894年の処女詩集『いのちと歌』にまとまった。1895年からプラハ大学、次いでミュンヘン大学で文学や美術、哲学を学んだ。1897年には生涯にわたり影響を受けた女性著述家ルー・アンドレアス・ザロメと出会い、その後を追ってベルリンへ移った。1899年と1900年にはザロメとともにロシアを旅し、モスクワでは71歳のトルストイを訪ねて深い感銘を受けた。素朴な信仰に根ざした暮らしに触れた経験は、『神さまの話』や『時祷詩集』を生む契機の一つになった。

1900年に北ドイツの村ヴォルプスヴェーデに招かれて若い芸術家と交わり、1901年4月、女性彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚した。12月に娘ルートが生まれたが、父の援助が絶えて生活は苦しくなり、リルケは『ロダン論』の執筆を引き受けて、1902年8月にパリへ渡り、9月にオーギュスト・ロダンと会った。ロダンの孤独な生活と、対象に肉迫する職人的な仕事ぶりに深く影響され、浅薄な叙情を捨てて、対象を言葉で内側から形づくろうとする「事物詩」に向かった。その成果が1907年の『新詩集』である。夫妻は貧しさから同居できず、安定した結婚生活は新婚の1年と数か月にとどまり、のちリルケがヨーロッパ各地を転々としたため一家は離散状態になった。パリでの生活を題材に6年をかけた小説『マルテの手記』は、1910年1月に完成した。

1910年にはマリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス=ホーエンローエ公爵夫人に招かれてアドリア海沿いのドゥイノの館に滞在し、1912年から連作の詩『ドゥイノの悲歌』を書き始めた。しかし第一次世界大戦で中断し、完成は10年後になる。大戦が始まるとパリに置いた蔵書や原稿が競売にかけられて散逸し、1914年12月には召集されてウィーンの部隊に配属されたが、周囲の請願もあり1916年6月に召集を解かれた。1919年にスイスへ移り、1921年にシエール郊外のミュゾットの古い館を借りた。ポール・ヴァレリーの詩に出会って翻訳を試みたことが悲歌の完成の力となり、1922年2月に『ドゥイノの悲歌』を一気に仕上げ、前後して『オルフォイスへのソネット』も成立した。

晩年は健康を損ね、1926年10月に白血病と診断されてヴァルモンの診療所に入院し、12月29日、51歳で亡くなった。墓碑銘には自作の薔薇の詩が選ばれている。生涯にわたって膨大な手紙を書いたことでも知られ、『若き詩人への手紙』などが刊行されている。

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