伝記
ヴィクトル・ミハイロヴィチ・ヴァスネツォフは、1848年5月15日、ヴャトカ県の寒村ロプィヤルに生まれたロシア帝国の画家である。神話や宗教、歴史を題材とした絵画を得意とし、19世紀のロシア画壇における文芸復興運動の立役者の一人とみなされている。叙事的で壮大な表現や耽美主義的な傾向があり、ロシア象徴主義の一員に数えられることもある。父ミハイルは村の司祭だったが、自然科学や天文学、絵画に興味を持つ、哲学者めいた教養人で、祖父ワシーリーはイコン画家だった。弟アポリナリーも著名な画家となり、もう一人の兄弟は学校教師になった。文芸評論家のウラディーミル・スターソフに宛てた書簡のなかで、少年時代を回想し、自分は「農民の子供たちとともに暮らした。同じ人民だからではなく、友人として彼らが好きだった」と述べている。
10歳からヴャトカの神学校に学び、夏ごとに家族連れで、豊かな商業地リャーボヴォで過ごした。神学校に在籍中に、地元のイコン商人のために働き、またポーランド人の流浪の画家ミハウ・エルヴィロ・アンドリオリを助けて、ヴャトカのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂のフレスコ画を制作した。神学校を修了すると、ペテルブルクに出て美術を学ぼうと決意し、上京の資金を稼ぐため、自作の絵画「刈取る女」と「乳搾りの女」(いずれも1867年作)を競売にかけた。1867年にペテルブルク帝国美術アカデミーに入学したが、3年後には、アカデミーに対抗していた写実主義の画家による移動派運動を知り、指導者のイヴァン・クラムスコイと親交を結んで、師と呼んだ。同窓のイリヤ・レーピンとも非常に親しくなった。1870年代初めには、同時代の風俗を描いた版画を数多く制作し、そのうちの2点は、1874年のロンドン万博で銀賞を授与された。油彩でも風俗画を描き、「田舎歌手」(1873年)や「転居」(1876年)は、民主主義的な党派からも温かく迎えられた。
のちに歴史画や宗教画の画家として名を揚げたヴァスネツォフが、当初はこうした題材を何としても避けようとしていたのは皮肉である。1876年に、レーピンに招かれて、パリに行き、古典的な絵画と同時代の絵画の両方、つまりアカデミー的な画風と印象派の画風とをひとしく研究した。ロシアの御伽噺に魅了されるようになったのもパリ時代のことで、「魔法の絨毯」などの「火の鳥」シリーズや、「灰色の狼に乗ったイワン王子」の制作に着手した。レーピンの名高い絵画「黄泉の国のサトコ」では、サトコのモデルも務めた。1877年にモスクワに戻り、1870年代後半は、ロシアの童話や御伽噺の挿絵に没頭して、「岐路に立つ騎士」(1878年)、「イーゴリ公の合戦」(1879年)、「アリョーヌシカ」(1881年)などの代表作を生んだ。これらは発表当時には評価されなかった。急進的な評論家の多くは、移動派の写実主義の原理を損なうものとして斥け、トレチャコフでさえ購入を拒んだ。
1880年代になると、庇護者のサーヴァ・マモントフの所有地アブラムツェヴォの芸術家村のために、一連のイコンを描くようになり、流行に乗った。1884年から1889年にかけて、キエフの聖ヴォロディームィル大聖堂にフレスコ画を描くよう依嘱された。これはロシアや西欧の宗教画の伝統に逆らう野心的な仕事だった。批評家スターソフは、ロシア人の宗教心に対する冒瀆的なお遊びと決めつけたが、批評家ディミトリー・フィロソフォフは、「ロシア社会のさまざまな階級を200年のあいだ切り離している入江に架かった最初の橋」と呼んだ。1926年6月23日に没した。
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