HISTORICAL PERSON · 紀元前105年没

マルクス・アウレリウス・スカウルス

共和政ローマの政治家・軍人で、紀元前108年の補充執政官。キケロに弁論家として挙げられた。紀元前105年、キンブリ族の侵攻に備える軍の副司令官として分遣隊を率いて壊滅し、捕虜となって殺害された。

生涯
紀元前105年没
死亡地
—
出生地
イタリア共和国(ローマ県 / 古代ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

マルクス・アウレリウス・スカウルスは、紀元前2世紀後期の共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前151年または150年ごろに生まれ、紀元前105年に没したと推定される。紀元前108年には補充執政官を務めた。出身のアウレリウス氏族は平民の家で、最初の執政官はガイウス・アウレリウス・コッタ(紀元前252年)であった。紀元前1世紀中ごろには、セルウィリウス氏族やカエキリウス氏族と並ぶ有力な平民氏族になっていた。スカウルスというコグノーメンが最初に確認できるのは、紀元前186年に法務官としてサルディニア属州総督を務めたガイウス・アウレリウス・スカウルスである。カピトリヌスのファスティの欠損により、本人の父と祖父の名は不明だが、紀元前118年の造幣官が本人であれば、父の名はマルクスになる。

経歴では、紀元前118年に造幣官を務めた可能性がある。また、法務官ルキウス・ウァレリウス・フラックスが属州総督を務めた際、その下で財務官となった。のちにスカウルスはフラックスを権力乱用で告訴しようとしたが、上司を訴えるのはローマの慣習に反するとして許されなかった。この事件の時期は、紀元前117年とも紀元前120年ともされ、フラックスの任地も分かっていない。告訴を試みたのは本人ではなく息子だったとする説もある。この場合、息子のスカウルスが紀元前104年か103年に財務官となり、その上司は紀元前100年の執政官となるフラックスだということになる。ウィッリウス法の規定から逆算すると、遅くとも紀元前111年には法務官に就いていたはずである。

紀元前108年の執政官に当選したルキウス・ホルテンシウスが就任前に裁判で有罪となったため、補充選挙が行われ、スカウルスが当選した。同僚の執政官セルウィウス・スルピキウス・ガルバの支援が大きかったと現代の研究者は見ている。ガルバの父と曽祖父の執政官時の同僚がアウレリウス氏族の人物だったことから、両氏族は友好関係にあったと考えられる。執政官に就任してからの業績は知られていない。一説には、クィントゥス・セルウィリウス・カエピオの下でガリアに従軍したともされる。

紀元前105年、スカウルスは執政官グナエウス・マッリウス・マクシムスの軍のレガトゥス(軍団副司令官)となった。この軍は、ゲルマン人のキンブリ族からガリア・トランサルピナを守るために派遣されていた。スカウルスは分遣隊の一つを率い、本隊から離れたアウラシオに駐屯したが、最初に攻撃を受けて壊滅し、捕虜となった。キンブリ族の指導者たちの評議会に連行されたスカウルスについて、歴史家グラニウス・リキニアヌスは、ローマ人にふさわしくないことは何も言わず、しなかったと記す。リウィウスによれば、スカウルスはローマの無敵を説き、戦争をしないよう説得しようとしたため、ボイオリックスという凶暴な若者に殺された。柳の籠に入れて生きたまま煮られたとする伝えもあるが、いずれにせよ最期まで毅然としていたとされる。ローマ軍は数日後のアラウシオの戦いで敗れ、全滅した。なお、スカウルスの死に心を動かされた執政官マッリウスは、前執政官カエピオの援軍を待ったが、カエピオは同じ陣営に入ることを拒んで協力しなかったともいわれる。

キケロは『ブルトゥス』で、スカウルスを弁論家の一人に挙げている。回数は多くないが洗練された演説をし、とくにそのラテン語には品位があったという。

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