伝記
ヴワディスワフ・スタニスワフ・レイモントは、1867年5月7日、ポーランドのラドムスコ近郊のコビェレ・ヴィェルキェの農村に、オルガン奏者ユーゼフ・レイメントの九人の子の一人として生まれた小説家である。母アントニナ・クプチンスカは、物語を語る才能に恵まれ、クラクフ地方の没落した貴族の出だった。幼少期はウッチ近郊のトゥシンで過ごした。父が、より裕福な教会の教区で働くために移ったからである。頑固で反抗的な子で、地元の学校で数年学んだのち、父の手でワルシャワに送られ、一番上の姉とその夫のもとで職を仕込まれることになった。1885年に試験に合格して、「出来のよい燕尾服」を提出し、職人仕立屋の称号を得た。これが彼の唯一の正式な学歴である。
家族の不満をよそに、仕立屋としては一日も働かなかった。まず旅回りの劇団に加わって逃げ出し、夏にはワルシャワの「庭園劇場」に戻った。一文なしになって1年後にトゥシンに戻り、父の人脈でコルシュキ近くの踏切番の職を得て、月給16ルーブルで働いた。その後も二度逃げ出し、1888年には、ドイツ人の心霊術師の霊媒として、パリとロンドンへ旅した。それから再び劇団に加わった。役者の才能はなく、家に戻った。定職につくことなくポーランド中を放浪し、一時はチェンストホヴァのパウロ会に入ることも考えたという。1892年に、ログフ、コルシュキ、スキェルニェヴィツェからの『通信』が、ワルシャワの『声』誌に採用されて、ワルシャワに戻り、新聞や雑誌の編集部を回って、才能に関心を持つ作家たちと出会った。
1894年に、チェンストホヴァへの11日間の巡礼に出て、その体験を1895年に『ヤスナ・グラへの巡礼』という報告にまとめた。紀行文学の古典とされ、この作品で文学的才能を評価されて、小説家としての地位を確立した。短編を雑誌に送り、好評に励まされて小説を書くことを決意し、『喜劇女優』と『酵母』を書いた。貧しさを脱した彼は、旅への情熱を満たし、ベルリン、ロンドン、パリ、イタリアを訪れた。ついでウッチで数か月、新たな小説の素材を集めた。その『約束の地』(1899年)は、工業都市ウッチの社会的不平等、貧困、労働の搾取を描いて注目を集めた。この印税で、フランスへの旅をして、亡命していたポーランド人の作家たちと交わった。
1900年に鉄道事故で重傷を負い、鉄道会社から4万ルーブルの賠償金を得た。治療中に世話をしてくれたアウレリア・シャツナイデル・シャブウォフスカと、1902年に結婚した。妻のおかげで旅行癖は多少おさまったが、フランスやザコパネへの滞在はやめなかった。『農民』は、1901年から1908年にかけて、フランスでも書かれた。四季折々のポーランド農民の生活をつぶさに描いたこの四部作で、国内だけでなく国際的な評価を得た。1919年には政府の費用でアメリカを旅した。1920年にはポズナン近郊に邸宅を買った。1924年11月に、トーマス・マン、バーナード・ショー、ハーディーらを抑えて、ノーベル文学賞を受賞した。1925年12月5日に没した。ウッチには彼の名を冠した空港がある。
同じ年に亡くなった人物
- ビンセンツォ・ペルージャ (1925年没)
- オリヴァー・ヘヴィサイド (1925年没)
- ジャン・ド・レシュケ (1925年没)
- レオ・ファル (1925年没)
- ティーホン (モスクワ総主教) (1925年没)
同じ地域に関係する人物
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- ベルナルド・ベッロット (1780年没)
- Andrzej Lapicki (2012年没)
- ヴワディスワフ1世ヘルマン (1102年没)
- フェルディナント・アントーニ・オセンドウスキイ (1945年没)