伝記
スプリウス・カッシウス・ウェケッリヌスは、共和政ローマ初期のもっとも特筆すべき人物の一人である。執政官(コンスル)を三度務め、凱旋式も二度行った。最初のマギステル・エクィトゥム(騎兵長官、実際には独裁官の副官)であり、最初の公有地法を提案した人物でもある。紀元前485年に没した。最後の執政官を務めた翌年、王政の復活をねらったとして告発され、貴族(パトリキ)によって死刑にされたと伝わる。
パトリキの生まれと信じられているが、のちにカッシウス氏族は平民となった。処刑のとき父がまだ生きていたといわれ、それが事実なら生まれは紀元前540〜535年より前とは考えにくい。三人の息子がいたが、名は残っていない。歴史家ニーブールは、王政復古は大罪とされていたため、息子たちがパトリキの地位を奪われたか、自ら捨てたのではないかと考えた。
最初の執政官は紀元前502年で、同僚はオピテル・ウェルギニウス・トリコストゥスであった。ディオニュシオスによれば、サビニ族とキュレス近くで戦って大損害を与え、サビニは講和を求めて多くの土地を割譲した。この勝利で最初の凱旋式を行った。リウィウスはアウルンキ人と戦ってスエッサ・ポメティアを奪ったと記すが、これはディオニュシオスが紀元前495年の出来事とするものと同じで、紀元前502年の相手はサビニと考えてよいと見られている。翌紀元前501年、ラルキウス・フラウスがローマ最初の独裁官となると、カッシウスはその騎兵長官に指名された。ラティウムとの戦争は紀元前498年に起こり、レギッルス湖畔の戦いでローマが勝った。のちカッシウスは元老院に、ラティウムの都市を破壊するよう求めたといわれる。
紀元前493年に二度目の執政官となり、同僚はポストゥムス・コミニウス・アウルンクスであった。ちょうどプレブスが離反してモンテ・サクロに立てこもっていたころである。以前の立場とは異なり、カッシウスはラティウムとの条約を批准し、ローマの繁栄を脅かす要因の一つを取り除いた。この条約は彼の名からカッシウス条約と呼ばれ、キケロの時代にも写しがあったという。この年にはケレース、リベルおよびリベラの神殿も奉献した。紀元前486年には三度目の執政官となり、ウォルスキとヘルニキに軍を進めたが、和平を求め、ヘルニキと同盟を結んだ。ローマ、ラティウム、ヘルニキは獲得した土地の3分の1ずつを受け取ることになったとされ、この条約は100年以上続いた。その見返りとして二度目の凱旋式を行った。
同盟の後、カッシウスは土地をプレブスとラテン同盟に分配する、ローマ最初の公有地法を唱えた。同僚執政官ウェルギニウスとパトリキは強く反対した。激しい議論ののち、プレブスも彼が王位をねらっているのではと疑って、反カッシウスに回った。紀元前485年に任期を終えると非難され、処刑された。リウィウスは、財務官カエソ・ファビウス・ウィブラヌスらの訴追で反逆罪の公開裁判にかけられた可能性が高いとする。ケントゥリア民会は死刑を宣告し、家屋も壊された。別の説では実の父が家長の権限で裁いて死刑にし、財産をケレース女神に寄進した。ディオニュシオスは、タルペイアの岩から突き落とされたとする。カッシウス・ディオは無罪であったと考えた。息子たちも同時に処刑されたという説があるが、ディオニュシオスは元老院が助命したと伝える。
同じ年に亡くなった人物
- オピテル・ウェルギニウス・トリコストゥス (紀元前 485年)
同じ地域に関係する人物
- ステファヌス3世 (ローマ教皇) (772年没)
- パウルス・マヌティウス (1574年没)
- グイード・マゼッティ (1993年没)
- ガブリエラ・トゥッチ (2020年没)
- ベネデット・ブリン (1898年没)