HISTORICAL PERSON · 1925年没

エリック・サティ

フランスの作曲家。「音楽界の異端児」「変わり者」の異名で知られ、ドビュッシーやラヴェルに影響を与えた。

生涯
1925年没
死亡地
フランス共和国(パリ / rue Pierre-Larousse)
出生地
フランス共和国(オンフルール)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

エリック・アルフレッド・レスリ・サティは、1866年5月17日にフランス第二帝政下のノルマンディーの港町オンフルールで生まれた作曲家である。「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」の異名で知られ、ドビュッシーやラヴェルに影響を与えた。海運業を営む父アルフレッドと、スコットランド系イギリス人の母ジェーン・レスリ・アントンの長男で、1年後に妹オルガが、1869年には弟コンラッドが生まれた。子どもたちは英国国教会で洗礼を受けた。1870年に父が海運業を辞め、一家はパリに移住したが、エリックの家族は、オンフルールとパリの間を往き来していた。1872年に母が亡くなり、エリックはオンフルールの生家で暮らす父方の祖父母に預けられ、この時にカトリックに改宗した。教会のパイプオルガンに魅せられて入り浸り、1874年には祖父が音楽を学ばせた。1878年に祖母が浜辺で溺死体で発見され、サティはパリの父のもとへ戻った。

1879年にパリ音楽院に入学したが、指導教授から才能がないと否定され、退屈すぎるとも感じて、1885年に2年半あまりで除籍された。その間に、処女作のピアノ小品を作曲した。ほかに『ジムノペディ』や『グノシエンヌ』などを発表した。1887年からモンマルトルに居住し、シャンソン酒場のピアノ弾きになった。カフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の一人となり、ドビュッシーやコクトー、ピカソらと交流した。1889年のパリ万国博覧会では日本の歌謡に触れた。1890年に薔薇十字団の創始者ペラダンと出会い、薔薇十字団にも関わって、小品を書いた。1893年には画家シュザンヌ・ヴァラドンと交際を始めたが、半年後に絶交した。

1898年から、パリ南郊のアルクイユに居住した。社会党に入党し、のちに共産党の結党とともに移籍したという。バレエ・リュスのために『パラード』を作曲し、カフェ・コンセールのためにいくつかの声楽曲を書いた。よく知られる『ジュ・トゥ・ヴー』はこの時期の作品である。同じ音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』や『家具の音楽』も書いた。『家具の音楽』は、客の邪魔にならず、家具のようにただそこにある音楽で、現在のイージーリスニングのルーツのような存在ともいえる。『官僚的なソナチネ』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』『梨の形をした3つの小品』のように、奇妙な題名をつけたことでも知られる。1904年にスコラ・カントルムに入学し、1908年に卒業した。1914年に詩人コクトーと知り合い、1919年にはダダイスムのツァラらと知り合って、メンバーとなった。

教会旋法を自作品に取り入れ、調性を放棄して、和声進行の伝統を無視し、調号や拍子記号、小節線も後に捨てた。ラヴェルは生涯にわたり彼への敬意を公言した。ただそこにあるだけの音楽という発想は、ブライアン・イーノやジョン・ケージの環境音楽に影響を与え、『ヴェクサシオン』の840回の繰り返しは、ミニマル・ミュージックの先駆けとされる。最後の作品となったバレエ『本日休演』では、幕間に上映された映画『幕間』の音楽も担当した。アルコール乱用で肝硬変を患い、1925年7月1日にパリで亡くなった。アルクイユの共同墓地に埋葬された。

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