伝記
フェルッチョ・ブゾーニは、1866年4月1日にイタリアのエンポリで生まれ、1924年7月27日にベルリンで没した、作曲家、編曲家、ピアニスト、指揮者、教育者である。イタリア出身で、ドイツを中心に世界中で活躍した。新古典主義音楽を提唱しただけでなく、電子音楽や微分音による作曲など、未来的な音楽像も唱えた。両親はともにプロの音楽家で、父フェルディナンドはクラリネット奏者のかたわら絵も描き、母アンナはピアニストで、トリエステ出身の祖父を通じてユダヤ人の血を引いていた。一人っ子で、まもなく一家はトリエステに移り、少年時代をほとんどそこで過ごした。神童で、おもに父に教わり、7歳で両親の公開演奏会でデビューした。自伝的な覚書に、父は「エネルギーと厳しさ、衒学の言い表しがたい組み合わせ」で補ったと書き、のちに「私に子供時代はなかった」と語ったという。
9歳から11歳までは、後援者の援助を受けてウィーン音楽院で学んだ。ウィーンでの最初の演奏は、評論家ハンスリックに絶賛された。1877年にリストの演奏に接して紹介され、リストはその技量に感心したという。ブゾーニは「リストのピアノ曲は、ピアノ芸術のアルファにしてオメガである」と最大限に讃え、その曲の校訂や編曲も手がけた。13歳で《24の前奏曲》を完成させたが、少年期の作品にはあまり意味がないと考えた。1881年には、モーツァルト以来最年少で、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選ばれた。作曲部門とピアノ部門の両方に挑戦し、作曲部門では優勝し、ピアノ部門は第二位となって、若手のホープに躍り出た。ブラームスにも会い、ブラームスの勧めでライプツィヒのライネッケに学んだ。
1886年にライプツィヒに赴き、1888年にヘルシンキで教え、同地で後の夫人イェルダ・ショーストランドに出会い、シベリウスとも友情を結んだ。1890年にモスクワ、1891年から1894年にはアメリカ合衆国でも教えた。アメリカではヴィルトゥオーゾのピアニストとして演奏旅行もこなし、バッハの《シャコンヌ》の有名な編曲も、この頃に手がけたらしい。1894年にベルリンに居を構え、ピアニストや指揮者として一連の演奏会を行い、とりわけ同時代の音楽の普及につとめた。マスタークラスでは、クラウディオ・アラウやエゴン・ペトリらを育てた。完成できなかったオペラ「アラジン」から派生した《ピアノ協奏曲》の完成後は、ロマン主義から離れ、新古典主義を偏愛した。1907年に『新しい音楽美学の草案』を発表し、より個性的な様式を築いた。
第一次世界大戦中は、ボローニャに避難して音楽院を監督し、チューリヒに移って、交戦国での演奏を拒み続けた。チューリヒ時代の弟子に、米国の電子音楽の先駆者の一人となるオットー・ルーニングがいる。1920年にベルリンに戻り、作曲のマスタークラスを開いて、クルト・ヴァイルやエドガー・ヴァレーズらを教えた。1914年にオペラに着手したが、未完のまま、腎臓病のために58歳で亡くなり、ベルリンに埋葬された。作品は303曲が確認されているが、没後は多くが品切れになり、忘れられた。自筆譜は戦争や分裂で散逸し、大部分が未出版である。
同じ年に亡くなった人物
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