伝記
ジョゼフ・コンラッドは、1857年12月3日、当時のロシア帝国キエフ県(現ウクライナ・ジトーミル州)で、没落したポーランド貴族の小地主アポロ・コジェニョフスキと、母エヴァの子として生まれたイギリスの小説家である。本名はユゼフ・テオドル・コンラト・コジェニョフスキという。一族は1830年の11月蜂起に加担して所領を没収されていた。父はロシア支配下のポーランドで独立運動を指導していたが、コンラッドが4歳のときに摘発されて投獄され、有罪が確定すると、翌年に一家とともに北部ロシアのヴォログダへ流刑となった。1863年にウクライナのチェルニーヒウに移されると、母は結核にかかり、1865年に一時所領に戻ったあとに死亡した。文学研究者でもあった父は、愛国的な詩や戯曲を書き、フランス文学やイギリス文学にも造詣が深かった。その影響で、幼少のコンラッドはシェイクスピアやディケンズ、ユゴーに親しみ、海洋文学にも感化された。1868年に母方のボブロフスキ家の尽力で流刑を解かれ、ルヴフに移ったが、結核を患っていた父はその翌年クラクフに移った直後に死去した。コンラッドは母方の伯父タデウシュ・ボブロフスキに引き取られ、祖母と暮らしながら家庭教師の教育を受けた。
1873年にルヴフのギムナジウムに通い始めたが、16歳になった翌年、健康上の理由で進級できず、伯父に船乗りになりたいと伝えた。意思は固く、伝手を頼ってマルセイユへ渡り、フランス商船の船員となった。西インド諸島などへ航海した。その後、密貿易への投資話にだまされ、モンテカルロで賭博に手を出して一文無しになり、1878年にマルセイユで拳銃自殺を図った。同年、ロシアの兵役を忌避したと見なされてフランス船に乗れなくなり、英国船に移って英語を学んだ。石炭運搬船に乗り、ロンドンの訓練学校で二等航海士の資格を得て、インドやシンガポールにも航行した。1884年に一等航海士の試験に合格し、1886年には船長試験に合格して、イギリス国籍を取得し、ジョゼフ・コンラッドと改名した。
1889年に『オルメイヤーの阿房宮』の執筆を始めた。アフリカへの注目が高まるなか、1890年にベルギーの象牙採取会社の船の船長となってコンゴ川に就航する船に乗り、陸路でレオポルドヴィルまで行って、病に倒れ、1891年にロンドンへ戻った。1893年にオーストラリアから戻る船には、のちに作家となるゴールズワージーが乗っており、船員以外では最初にコンラッドと友情を結んだイギリス人となった。1894年に処女小説の原稿を出版社に送り、批評家エドワード・ガーネットの推薦で、1895年に出版された。マレーシアを舞台とする物語で、ロシア語、ポーランド語、フランス語を使った彼が、最後に学んだ英語で書いた。ガーネットの励ましで第2作『文化果つるところ』を書いた。1896年にイギリス人女性ジョシー・ジョージと結婚し、二人の息子をもうけた。
1899年に『闇の奥』、1900年に『ロード・ジム』を発表した。『闇の奥』は、コンゴ川での経験をもとに西洋文化の暗い側面を描き、T・S・エリオットらに影響を及ぼし、1979年にコッポラが『地獄の黙示録』として翻案した。1912年に『チャンス』が連載されて広く人気を得て、ベストセラー作家となった。1924年に首相からナイトの称号を打診されたが辞退し、同年8月3日、ケント州のビショップスボーンで心臓発作のため亡くなった。遺体は本名で、カンタベリーの墓地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
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