伝記
ガイウス・ブロッシウスは、紀元前2世紀のストア派の哲学者である。カンパニア地方のクマエの出身で、タルソスのアンティパトロスに学んだ。没年は紀元前130年ごろ、小アジアでのこととされる。プルタルコスによれば、ギリシア人の修辞学者ディオファネスとともに、護民官ティベリウス・グラックスを土地改革へと促した人物である。
ストア派のなかでは、バビロニアのディオゲネスやパナイティオスが私有財産を自然な欲求として擁護し、それに反する行為を暴政と見たのに対し、ブロッシウスは穀物の再分配や公有財産を人類の利益のために考える流れに属したとされる。これは、ストア派の創始者ゼノンの国家論にすでにあった考え方である。ブロッシウスは、ディオファネスとともに若いティベリウスの教育にあたり、おそらく母コルネリアの意向もあって、自分の考えの一部を吹き込んだという。そのため後世には社会主義理論の先駆者と見なされることも多く、歴史家アーノルド・トインビーは彼を「マルクスのヘレニズム的原型」とまで評した。ティベリウスが貧しい平民に土地を与える農地法を実現しようとすると、政敵は、民衆の蜂起をあおって自ら王になろうとしていると非難した。ティベリウスはついに殺害され、遺体はテヴェレ川に投げ込まれた。
ティベリウスの死後、ブロッシウスは執政官たちに尋問された。彼は、ティベリウスの求めたことは何でもしたと隠さずに認めた。執政官が「ではティベリウスがカピトリウムを焼けと命じたら、どうするのか」と問うと、ティベリウスがそのような命令をすることはないと答えた。なおも追及されると、ティベリウスがそれを命じるとすれば、ローマの民衆の真の利益にかなう場合に限られるだろうと述べた。そのあと彼は釈放された。
その後ブロッシウスは、アジア属州に渡った。ここで、エウメネス3世を名のるアリストニコスの民衆蜂起に加わり、ヘリオポリス国家の組織づくりを助けたとされる。この国家では奴隷も主人もなく、すべての市民が調和のうちに暮らすはずだったという。しかし蜂起は敗れ、アリストニコスはマルクス・ペルペルナとの戦いで破られた。夢が砕かれたうえ、捕らえられてローマに送られればローマ人の復讐を受けると知っていたブロッシウスは、自ら命を絶った。
スティーヴン・セイラーの小説『ローマ』では、ブロッシウスは好意的に描かれた登場人物である。作者は知られている史実に沿いつつ、貴族の女性との長い恋愛関係を付け加えているが、これは史料に確認できないものである。
同じ年に亡くなった人物
- パクウィウス (紀元前129)
- マルクス・ペルペルナ (紀元前130年の執政官) (紀元前129年没)
- スキピオ・アエミリアヌス (紀元前129年没)
- アンティオコス7世シデテス (紀元前129年没)
- セルウィウス・スルピキウス・ガルバ (紀元前144年の執政官) (紀元前 129年)
同じ地域に関係する人物
- アンドロニコス・コムネノス (1142年没)
- ジャラールッディーン・メングベルディー (1231年没)
- アッタロス (将軍) (紀元前336年没)
- イヴァン・アセン3世 (1303年没)