伝記
マルクス・パクウィウスは、古代ローマの悲劇詩人である。ルキウス・アッキウスが現れるまでのローマで最も偉大な悲劇作家とされる。生年は紀元前220年と伝えられ、没年は紀元前129年とされる。詩人エンニウスの甥であり弟子でもあった。エンニウスと同じくオスク系の出身だったらしく、紀元前244年にローマの植民市となったブルンディシウムの生まれとされる。
パクウィウスは画家としても名を知られた。大プリニウスは、フォルム・ボアリウムにあるヘラクレス神殿に彼の作品があったと記している。詩人としては、エンニウスやアッキウスに比べると多作ではなかった。知られている戯曲は12編で、題材はギリシアの物語にとり、その多くはトロイア伝説圏に連なる。作品名としては『アンティオペ』『武具の裁判』『アタランテ』『クリュセス』『ヘルミオネ』『イリオネ』『ペンテウス』『テウクロス』などが挙がる。このほかに、ローマ風の題材を扱う作品として『パウルス』が一編ある。これは、ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスがピュドナの戦い(紀元前168年)で収めた勝利にちなんで書かれたもので、ナエウィウスの『クラスティディウム』やエンニウスの『アンブラキア』が大きな軍事的勝利を記念したのと同じ類のものである。
エンニウスが紀元前169年に没してから、最も若く最も多作な悲劇詩人アッキウスが登場するまでの間、真剣な劇の流れを保ち続けたのはパクウィウスただ一人だった。彼は80歳になるまで悲劇を書き続け、アッキウスが30歳のころ、同じ年に自作を上演したという。晩年はタレントゥムに引きこもった。アウルス・ゲッリウスは、アジアへ向かう途中のアッキウスがここを訪ね、『アトレウス』を朗読して聞かせたという話を伝えている。ただし、この話は、若いテレンティウスが老カエキリウス・スタティウスを訪ねたという話と同じく、後代の文法家による創作らしい。それでも、年長のパクウィウスを学識(ドクトゥス)、年少のアッキウスを気迫(アルトゥス)で特徴づける伝統的な批評に沿って作られた話である。
パクウィウスの墓碑銘は自作とされ、ゲッリウスが「慎み深く、飾り気がなく、気高く真剣な精神」への賛嘆とともに引用している。急ぐ若者よ、この石は君に、眺めてから書かれたものを読むよう求めている。ここには詩人マルクス・パクウィウスの骨が納められている。君に知ってほしかった。さらば、という内容である。
後世の評価も高い。キケロは彼の詩句をしばしば賛嘆をこめて引用し、ローマの悲劇詩人の第一位に置いているように見える。キケロが自らの倫理的な教えの例証に引いた断片には、不屈、威厳、寛大といった、ローマ人の気質の最も高貴な部分に訴える心情が表れている。物理や倫理についての思索への関心を示す一節や、宗教的なまやかしの主張を暴く一節もある。ローマの悲劇詩人たちは、ルクレティウスに先立って、思弁哲学や常識の結論を用いて、広まっていた迷信の諸形態を攻撃したとされる。また、彼らはラテン語が弁論、歴史、道徳論の器となる力を育てるのにも寄与した。一方で、新しい語形や活用の工夫は粗さも伴い、風刺詩人ガイウス・ルキリウスに、のちにはペルシウスにもあざけられた。ナエウィウス、プラウトゥス、テレンティウスのような、ラテン語としての自然な純度には達しなかったともいわれる。それでも現存する断片は、ローマの文章語の形成と、同時代人の教養や気風に彼が果たした役割を示すのに十分だとされる。
同じ年に亡くなった人物
- セルウィウス・スルピキウス・ガルバ (紀元前144年の執政官) (紀元前 129年)
- マルクス・ペルペルナ (紀元前130年の執政官) (紀元前129年没)
- メナンドロス1世 (紀元前 129年)
- エウメネス3世 (紀元前129年没)
- クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス (紀元前 129年)
同じ地域に関係する人物
- アルキタス (紀元前347年没)
- ニコラ・ファーゴ (1745年没)
- ジョヴァンニ・パイジエッロ (1816年没)
- ジャック・デ・ボー (1383年没)
- フィリッポ2世 (ターラント公) (1373年没)