伝記
ジョン・ベン(ヴェン)は、1834年8月4日に、イギリスのヨークシャー州キングストン・アポン・ハルで、ドライプール教区の司祭ヘンリー・ベンと、マルタ・サイクス夫妻の間に生まれた、論理学者、哲学者である。ベン図の考案者として知られ、その成果は、集合論、確率、論理学、統計学、計算機科学をはじめとする様々な分野で利用されている。母は彼が3歳のときに亡くなった。長い福音主義の聖職者の家系で、祖父のジョンは、ロンドン郊外クラパムで、奴隷制廃止運動のウィルバーフォースの牧師を務めた人物である。父ヘンリーは福音主義運動の担い手の一人で、アフリカと東方への宣教協会の書記を務め、海外に八つの主教区を作った。厳格な雰囲気の中で育てられた。
幼少時は家庭教師から教育を受け、のちにロンドンの学校に兄弟とともに学んだ。1853年10月に、ケンブリッジ大学のゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジに入学した。数学の試験は、自分の数学の作風に合わないと感じ、少数の私的な家庭教師が、いつも試験を念頭に置いていることに不満を述べた。彼は、課程を超えた興味深い考えを探求したかった。それでも、1857年1月の試験では優等第6位となり、数学の学位を得た。試験に対する「反動と嫌悪」から、数学の本を売り払い、二度とこの学問には戻らないと語ったという。家系に従って、1859年に聖公会の司祭となり、ハートフォードシャーのチェスハント、次いでサリー州のモートレイクで勤めた。
1862年、フェロー研究員としてケンブリッジに戻り、倫理科学の講師となって、政治経済学、哲学、確率論、論理学を研究し、教えた。論理学を再び学び直し、『偶然の論理』(1866年)、『記号論理学』(1881年)、『経験的あるいは帰納的論理学の原理』(1889年)の教科書で、この分野の主要な学者となった。『偶然の論理』は、確率とは、教養ある想定ではなく、ある事象が起こると予測される頻度によって決まるとする頻度説を唱えた画期的な本である。1881年の『記号論理学』では、ブールの理論をさらに発展させ、のちにベン図として知られることになる図を示した。彼自身はこれを「オイラーの円」と呼び、1880年に導入したもので、教育のための道具と考えていた。複数のカレッジの学生を教えたことでも知られ、これは当時、まれなことだった。
1868年にスザンナ・カーネギー・エドモンストーンと結婚し、一人息子ジョン・アーチボルドをもうけた。息子も数学の分野に進み、ケンブリッジ大学の副総長になった。1883年、自らの哲学と聖公会主義は矛盾すると結論して、聖職を退いた。同年、王立協会のフェローに選ばれ、翌1884年にケンブリッジから上位博士号を授与された。1903年にはカレッジの学寮長に選ばれ、死去するまでその職にあった。息子とともに、クリケットのボールに回転をかけて投げる機械を開発し、1909年6月にケンブリッジを訪れたオーストラリア代表の主力打者を、この機械が打ち取ったという。市民生活でも、慈善団体の委員や、古物研究協会の会長を務め、女性参政権を支持し、女性の市議会選への立候補を勧める手紙に、妻と署名した。1923年4月4日に没し、墓はトランピントンの墓地にある。2014年8月4日には、生誕180周年を記念して、グーグルの検索画面のロゴにベン図が使われた。
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