伝記
サー・ジェイムズ・デュワーは、1842年9月20日にスコットランドのキンカーディン=オン=フォースで、ワイン商の父トマスと母アンの、6人兄弟の末っ子として生まれた化学者、物理学者である。地元の学校に通い、のちにドラー・アカデミーで学んだが、1852年にリウマチ熱にかかり、長期間の療養生活を余儀なくされた。15歳になるまでに両親と死別し、兄弟と暮らしたが、1859年にエディンバラ大学に入学した。大学ではプレイフェア卿のもとで化学を学び、卒業後もその助手としてとどまった。のちにヘントでケクレのもとでも学んだ。
最初の論文は1867年に発表された化学構造モデルに関するもので、ベンゼンの構造式の候補をいくつか挙げた。これがケクレの目にとまり、その夏、ベルギーのヘントにあった彼の研究室に招かれ、ベンゼンのほかにピリジンやキノリンの構造式も提案した。帰国後はエディンバラ大学で1873年まで助手として働き、1869年からは王立獣医学校の講師も兼ねた。ここで、生涯をささげた低温物理学の研究を始めた。1875年にケンブリッジ大学のジャクソン教授となり、1877年にロンドン王立研究所のフラー化学教授に就任して、両方を死ぬまで務めた。ケンブリッジでは、リーヴェイングと25年以上にわたり、スペクトル線やバンドと分子の状態の関係を調べた。
1877年に王立研究所に移ってからは、気体の液化とその低温の物性を研究した。この年、カイユテとピクテが独立に窒素と酸素の液化に成功しており、デュワーは翌年に酸素の液化に成功して、王立協会の金曜講演で実演した。1885年までには大量の液体酸素を製造できるようにし、1891年、液体の酸素やオゾンが磁性を持つことを発見した。ジュール=トムソン効果を利用した冷却技術を開発し、1895年に微量の水素を液化した。1898年には液体水素を大量に製造できるようにし、翌年には零下259度で水素の凝固にも成功した。残るヘリウムの液化も目指したが、不純物のネオンが先に凍って装置を詰まらせ、成功しなかった。ヘリウムの液化は1908年に、オランダのカメルリング・オネスが成功した。
1892年、研究の合間に魔法瓶、すなわちデュワー瓶を発明した。二重壁の間を真空にして、伝導と対流を防ぐもので、当初はガラス製であった。1904年にドイツ人のガラス職人二人が商品化し、「テルモス」の商標で発売した。1905年には、ココナッツの殻の炭を零下185度に冷やすと、真空度を上げる吸着剤になることを発見し、内部を銀メッキして放射を防ぐことを考案した。彼は発明を特許にしなかったため、特許をめぐるテルモス社との裁判にも敗れ、広く普及した魔法瓶から利益を得なかった。1889年には、アーベルと共同でコルダイト火薬を発明した。1904年に英国のナイトに叙せられた。第一次世界大戦が始まると、低温研究は費用がかかるため中止され、薄膜の研究を行った。1921年には太陽放射を測定した。ある泡は322日の間壊れなかったという。ノーベル賞に物理学で5回、化学で3回の計8回ノミネートされたが、受賞はなかった。1923年3月27日にロンドンで死去した。
同じ年に亡くなった人物
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