伝記
趙佗は、南越の初代王である。秦の元官僚で漢人、常山郡真定(現在の河北省石家荘市正定県)の人とされる。在位は紀元前203年から紀元前137年で、『史記』などでは官職名に由来する「尉佗」の別称でも呼ばれる。紀元前221年に天下を統一した始皇帝は、紀元前219年に嶺南の百越の征服に着手した。秦は50万の大軍を動員したとされ、主将は屠睢で、趙佗と任囂はその部下だった。西甌の首長を討ち取ったものの、越人の抵抗で3年にわたる戦役は失敗し、屠睢も戦死したという。始皇帝は征伐を続け、紀元前214年に嶺南を平定して南海郡、桂林郡、象郡を置いた。南海郡の郡治は番禺で、郡尉には任囂が任じられ、趙佗はその管轄下の龍川の県令となった。趙佗は越人の反抗を防ぐ一方で現地の民を慰撫することに努め、兵士には現地で妻子を持って家庭を築くよう勧め、中原の民を南越へ移住させるよう要請して、文化の交流と同化を進めた。
始皇帝が紀元前210年に死去し、二世皇帝の暴政で秦に反乱が相次ぐと、紀元前208年に任囂が病で危篤となった。任囂は趙佗を呼んで南海郡尉の代行を命じ、番禺は険しい山を背に南海を屏障とし、東西は数千里に及んで中原からの人々も多く、一州の主となって国を建てることもできると語った。任囂の死後、趙佗は関所に布令を出して道路を遮断し、兵を集めて自衛させた。そして、秦が南海郡に置いた長官を法に則って誅殺し、自らの側近を代わりに据えた。紀元前206年に秦が滅びると、隣の桂林郡と象郡を攻めて併合し、紀元前203年(紀元前204年とも)に現地の士民に擁されて「南越」を建て、自ら「南越武王」と称した。
紀元前202年に劉邦が漢を興したが、民の労苦を考えて南越への遠征はしなかった。紀元前196年に劉邦は陸賈を使節として送り、趙佗は正式に南越王として印綬を受けた。国境は長沙国とすることでまとまり、趙佗は陸賈に宝玉を贈った。呂后の時代、漢の官吏が鉄製器具の交易の廃止を申請すると、趙佗は南越を滅ぼそうとする長沙王の陰謀と考え、武帝を自称して長沙国を攻め、数県を荒らして財宝と人民を奪った。呂后は紀元前182年頃に周竈に南越遠征を命じたが、暑気と疫病で士気が崩れ、呂后の死後に周竈は一年余で撤退した。
勢いに乗った趙佗は閩越や甌越の方面へ北進し、西北の駱越にも遠征して財産を与え、支配下に置いた。こうして華南全域と華中南部の一部に及ぶ広大な領土を築き、「南越武帝」と号した。紀元前179年に文帝が即位すると、趙佗の一族を懐柔し、再び陸賈を使節として送った。以後、趙佗は「藩王」として毎年貢物を送ったという。ただ、南越国内では「武帝」と称えられ続けたようである。
建元4年(紀元前137年)、百余歳(『大越史記全書』では121歳)で趙佗は世を去った。嗣子や諸子は先に亡くなっていたため、嫡孫の趙眜が跡を継いだ。趙佗は漢人の出自の「外国王」だったが、一族は、彼が連れてきた秦の兵士の子孫とともに、やがて南越に同化した。六世孫の趙建徳は漢の武帝が派遣した路博徳と楊僕に攻められて捕虜となったが、その後の詳細は不明である。趙眜のあと、曾孫の趙嬰斉、玄孫の趙興と続き、最後の王が趙建徳であった。ベトナムの伝統的な歴史家は趙佗をチエウ朝の創始者とみなすが、現代の歴史家には、漢人の侵略者としてアウラック王国を併合した人物と見る者もいる。