伝記
ジョーン・オブ・イングランドは、1165年10月に生まれ、1199年9月4日に没した、シチリア王グリエルモ2世の王妃であり、のちにトゥールーズ伯レーモン6世の妃となった女性である。イングランド王ヘンリー2世と、王妃アリエノール・ダキテーヌの娘で、アンジューのアンジェ城で生まれた。幼いころは母の宮廷とともに、フランスとイングランドを巡り、幼少期の多くをフォントヴロー修道院で過ごしたともいわれる。1173年から1174年の反乱ののち、1174年に父によって修道院から連れ出され、母が軟禁されていたソールズベリーと、のちにウィンチェスターに移された。
1176年、シチリア王グリエルモ2世が使節を送り、ジョーンとの結婚を申し込んだ。婚約は5月20日に整った。8月末にジョーンはサウサンプトンから出発した。兄の若ヘンリー王が、ポワティエまで送り、リチャードがポワティエからサン・ジルまで護衛した。1177年1月末に、パレルモに無事着いた。2月13日、パレルモ大聖堂で結婚式と戴冠式が行われた。1181年か1182年に長男ボエモンドが生まれたが、夭折したといわれる。グリエルモ2世は離縁せず、叔母コンスタンスを後継者に指名した。
1189年11月にグリエルモ2世が亡くなると、シチリアは、庶出の従兄タンクレーディに奪われ、ジョーンは、コンスタンスの王位継承を支持した報復として、パレルモで軟禁された。1190年、第3回十字軍の途上でイタリアに着いた兄のリチャード1世は、ジョーンの返還と持参金を要求した。タンクレーディがためらうと、リチャード1世は修道院とバニャラ城を奪い、冬をイタリアで過ごし、メッシーナの町を攻めて従えた。タンクレーディはついに要求をのみ、ジョーンを解放した。1191年3月、母アリエノールがリチャード1世の婚約者ベレンガリアを連れてメッシーナに着き、ジョーンはベレンガリアの後見を託された。二人は兄の船団とともに出航したが、2日後に嵐に遭い、船が流されてキプロス島の近くに漂着し、島の太守イサキオス・コムネノスに捕らえられそうになった。そこへリチャード1世の艦隊が現れて、二人は救われた。リチャード1世は、イサキオスを追って捕らえ、5月12日に、キプロスのリマソルでベレンガリアと結婚し、ジョーンとベレンガリアをアッコンへ送った。
ジョーンは、リチャード1世のお気に入りの妹だった。リチャード1世は、サラディンとの停戦交渉中に、サラディンの弟アル・アーディルと、未亡人のジョーンを結婚させ、二人をエルサレムの共同統治者にしようと考えたが、ジョーンが激怒して拒み、計画は実現しなかった。フランス王フィリップ2世も、ジョーンとの再婚に関心を示したが、これも実現しなかった。1196年、ジョーンは、兄の対フランス政策の一環として、トゥールーズ伯レーモン6世と結婚した。レーモン6世にとって3度目の結婚で、持参金としてクエルシーとアジュネがもたらされた。翌1197年に、のちのレーモン7世を産んだ。1199年、第3子を身ごもっていたジョーンは、夫の不在中に、領主の暴動に直面し、北へ向かって兄の保護を求めたが、リチャード1世はすでに亡くなっていた。母アリエノールと再会し、衰弱したジョーンは、フォントヴロー修道院で出産したのち息絶え、死の床で修道女となった。生まれた男児は洗礼を受けたのち、短い生を終えた。ジョーンは、フォントヴロー修道院に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード1世 (イングランド王) (1199年没)
- ベネディクタ・ヴィーゼ (1199年没)
- Albert III, Count of Habsburg (1199年)
- ハーカーニー (1199年)
- マラ・テクレ・ハイマノート (1199年(推定))
同じ地域に関係する人物
- Mathurin Regnier (1613年没)
- ベネディクト・モレル (1873年没)
- ルイ=ピエール・ヴィエロット (1831年没)
- モデスト・エムバミ (2023年没)
- ダヴィド・S. シュレベール (2011年没)