伝記
ウラジーミル・ガラクティオノヴィチ・コロレンコは、1853年7月27日(ユリウス暦7月15日)に、ジトーミルで生まれたロシアの短編小説家、ジャーナリストで、人道主義者である。ウクライナ系で、父ガラクチオンはポルタヴァ生まれのコサックの子で、郡の裁判官だった。賄賂を拒む強情な正直さのため、同業者の中でドン・キホーテのように見えた、と息子は後に回想している。母エヴェリーナはポーランド系で、幼いころは自分がどの民族に属するかよく知らず、ロシア語よりも先にポーランド語の読み方を覚えたという。1863年の一月蜂起の後に、一家は国籍を選ぶことになり、ロシア人になることを決めた。1866年にロヴノで父が急死し、母は大きな苦労をしながら、3人の息子と2人の娘を、わずかな収入で育てた。
ポーランド系の寄宿学校で学び始め、ジトーミル中学に入学した。父がロヴノに転勤すると、ロヴノの実業学校に転籍し、銀メダルを得て卒業した。最終学年にネクラーソフやツルゲーネフの作品に出会い、のちに、ロシア文学の世界で本当の祖国を見つけたと書いている。シェフチェンコやウクライナの民間伝承にも影響を受けたという。1871年にペテルブルクに上京し、工業専門学校に入学したが、極度の貧困のなか、1年あまりで学費の問題から辞めた。1874年にモスクワへ移り、ペトローフスカヤ農科大学に学んだが、1876年に学友の逮捕に抗議する連名の手紙に署名したとして、放校となり、ヴォログダ地方へ追放された。母の嘆願により、クロンシュタットへ移された。1877年にペテルブルクの鉱業専門学校に入学し、ナロードニキのグループで活動したが、八か月後に、密偵に報告されて逮捕され、各地へ追放された。シベリアにも送られ、最終的にペルミでの居住が許された。
1879年に、半自伝的な最初の短編が雑誌に載り、社会的、精神的な居場所を必死に探す若いナロードニキを描いた。同年、革命運動を行ったとして投獄された。独房で書いた初期の短編は、手書きの形でロシア中に広まった。モスクワに戻った後、1885年に、瀕死の農夫が見る不思議な夢を描いた短編『マカールの夢』を発表し、作家としての名声を得た。『悪い仲間』(1885年)、『盲音楽師』(1886年)、『森はざわめく』(1886年)、『川がはしゃぐ』(1892年)、『パラドクス』(1894年)など、人道主義的な立場から、ロシアの民衆と自然を描いた数多くの短編を発表して、高く評価された。『悪い仲間』は、1983年に映画『灰色の石の中で』の原作にもなった。ロシア科学アカデミーの会員にも選出されたが、1902年に、ゴーリキーの入会取り消しに抗議して、チェーホフとともに辞任した。
作家活動のかたわら、1895年に雑誌『ロシアの富』の編集長となり、ツァーリズムを批判し、文芸評論にも健筆を振るった。1917年にロシア革命が起こると、初めは賛成の立場をとったが、やがてボリシェビキの急進的な活動に失望し、ロシア内戦では赤軍と白軍の双方を厳しく批判した。1921年12月25日に没した。日本では森鷗外が「樺太脱獄記」を、ドイツ語訳から訳しており、『諸国物語』に収められている。
同じ年に亡くなった人物
- テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク (1921年没)
- P. B. S. Pinchback (1921年没)
- フィリップ・ツー・オイレンブルク (1921年没)
- アントニー・グラボウスキー (1921年没)
- ルートヴィヒ・クノール (1921年没)
同じ地域に関係する人物
- マルーシャ・チュラーイ (1653年没)
- パヴロ・ザフレベルニィ (2009年没)
- Panas Myrnyi (1920年没)
- グリゴリー・ミャソエドフ (1911年没)
- イヴァン・コトリャレーウシキー (1838年没)