伝記
ピョートル・アレクセーエヴィチ・クロポトキンは、1842年12月9日に、モスクワの古い屋敷町スタラヤ・コニュシェンナヤで、クロポトキン公爵家の三男として生まれた、ロシアの革命家、政治思想家であり、地理学者、社会学者、生物学者でもある。公爵家は、キエフ大公国の始祖リューリクの血を引くスモレンスク公の末裔で、カルーガ、リャザン、タンボフの3県にまたがる土地と、多数の農奴を持つ大地主であった。代々、宮廷の要職を担い、貴族、軍人、高級官僚を輩出した。父アレクセイは、露土戦争に参加して聖ゲオルギー勲章を受けた軍人だったが、粗野で俗物的であり、子どもや使用人に乱暴だった。母エカチェリーナは、ウクライナ・コサックの血筋を引くスリーマ家の令嬢で、教養に通じて理知的で、使用人や子供たちにも優しかったが、クロポトキンが3歳の時に死去した。彼と兄アレクセイは、家庭教師がつくまで、母を慕う使用人たちの手で養育された。
7歳の時、仮面舞踏会に出席し、皇帝ニコライ1世の目に止まった。この時、貴族幼年学校への入学を約束されたが、年齢に達しておらず、引き続き家庭教師の教育を受けた。欠員がなかったため、モスクワ第一中学校で2年間を過ごし、のちに幼年学校に入学したが、入学試験で数学の成績が芳しくなかったため、最下位のクラスの第5組からのスタートになった。だが幼年学校では優秀な成績を収め、14歳でサンクトペテルブルクの近衛連隊に入隊するまでになり、陸軍士官学校へ進むための特別な教育と訓練を受けた。このころから農民や農村社会への関心を持ち、フランスの百科全書派など西欧の啓蒙思想に触れることが多くなった。
1862年、自ら望んでイルクーツクに赴任し、軍務のかたわら、シベリアから満州一帯の現地調査を行って、地理学的な知見をロシアにもたらした。一方で、ジョン・スチュアート・ミルやゲルツェン、プルードンなどの著作に親しみ、無政府主義への関心を深めた。1867年に軍を退役し、生家からは勘当される格好となったが、サンクトペテルブルクに戻って、数学を学びに大学に入学し、ロシア地理学協会にも入会した。フィンランドやスウェーデンの氷期の堆積物を調べに行くなど、学問的業績を残す一方、秘密裏に活動していた革命結社に出入りするようになった。1872年にはベルギーからスイスへと外遊し、バクーニン派の第一インターナショナルの会合に、ロシアの無政府主義者の代表として出席した。
1874年に革命謀議で逮捕され、ペトロパヴロフスク要塞の牢獄に拘留された。獄中で健康を損ねて医療刑務所に移されたが、脱獄してフィンランドからスウェーデン、ノルウェーを経てイギリスに亡命し、さらにスイスに移った。何度も逮捕や指名手配、投獄を繰り返しながらも、ヨーロッパ各地で活動を続けた。1878年にソフィア・ラビノビッツと結婚し、1人の娘をもうけ、1879年にはジュネーブで、アナキスト系の新聞『反逆者』の創刊に関わった。著書に『パンの略取』(1892年)、『田園・工場・仕事場』(1898年)、『相互扶助論』(1902年)がある。プルードン、バクーニンと並び、近代アナキズムの発展に尽くし、当時一世を風靡した社会進化論やマルクス主義を批判して、相互扶助を中心概念に据えた無政府共産主義を唱えた。二月革命を経てロシアに戻り、臨時政府から文部大臣就任を打診されたが、拒否した。十月革命については、革命が葬られたと批判した。1921年2月8日に、モスクワ近郊のドミトロフで没した。
同じ年に亡くなった人物
- アブドル・バハ (1921年没)
- E・W・ホーナング (1921年没)
- ピエール・コイペルス (1921年没)
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- アニー・エドソン・テイラー (1921年没)
同じ地域に関係する人物
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- エフゲニー・グリシン (2005年没)
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- レオニード・コーガン (1982年没)
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