伝記
ニコライ・イヴァノヴィチ・ブハーリンは、1888年9月27日(グレゴリオ暦10月9日)にモスクワで生まれたロシアの革命家、ソビエト連邦の政治家である。両親は教員で、父イヴァンはモスクワ大学で学んだ数学者だった。知的な雰囲気の家庭で育ち、少年時代は父の影響で蝶や鳥類に熱中した。中学校在学中にマルクス主義の影響を受けて革命運動にかかわり、1905年にロシア社会民主労働党に入党して、党の分裂の際はボリシェヴィキに参加した。1907年にモスクワ大学法学部に入学し、1908年に党モスクワ委員会のメンバーとなって、次第に頭角を現した。1911年に逮捕、投獄されて大学を放校処分となり、アルハンゲリスク県のオネガに3年間の流刑となったが脱走し、モスクワ経由でドイツに亡命した。1912年秋にウィーンに移り、ウィーン大学で経済学と社会学を学んで、亡命ボリシェヴィキのなかで理論家として一頭地を現した。
1915年の「帝国主義と世界経済」、1916年の「帝国主義国家の理論によせて」の両論文は、レーニンの帝国主義論と国家観に影響を与えている。1914年にはオーストリア当局からスパイの嫌疑をかけられて逮捕され、国を追われてスイスのローザンヌに住み、1915年に北欧、アメリカのニューヨークへ移った。この時期はレーニンと理論や革命戦術をめぐって対立していたが、新聞の編集に携わるなかで、トロツキーやコロンタイと親しくなった。1917年に二月革命が起こると、5月にアメリカから横浜を経由してロシアに帰国し、党モスクワ委員会やモスクワ・ソビエトで活躍して、第6回党大会で中央委員に選ばれた。十月革命後は党機関紙『プラウダ』の編集長となったが、1918年のブレスト=リトフスク条約調印をめぐっては、「左翼共産主義者」グループを率いて、対独講和を主張するレーニンに反対した。
内戦中は理論家として成果を上げ、若手研究者の養成に力を尽くし、1919年にプレオブラジェンスキーと共同で『共産主義のABC』を、1920年に『過渡期の経済学』、1921年に『史的唯物論』を著して、レーニンから激賞された。1921年にネップが採択されると、スターリンとともに一国社会主義論の立場を取り、農民との協力のもとで漸進的に社会主義国家を建設することを主張した。1924年のレーニンの死後に政治局員に昇格し、1926年にはジノヴィエフの跡を襲ってコミンテルン執行委員会議長に就任した。しかし工業化と農業の集団化をめぐってスターリンと対立し、ルイコフ、トムスキーとともに反スターリン派を形成したが、「右翼」として批判されて、党や政治局員、プラウダ編集長、コミンテルン議長を解任された。いったん自己批判してスターリン支持を表明し、1934年には『イズベスチヤ』誌編集長として復帰して、1935年の新憲法の起草にも参加した。
しかし1936年に大粛清が始まると編集長を解任され、1937年に党から除名されて、同年2月に逮捕された。逮捕の前夜、夫人のアンナ・ラーリナに、名誉回復を訴える上申書「党の指導者の未来の世代へ」を記憶させた。1938年3月の第三回モスクワ裁判で、罪を認めれば死刑にしないことと妻子を助けることを約束されて有罪を認めたが、約束は守られず、「ドイツ、日本、ポーランドの手先」として、3月15日に銃殺された。49歳だった。妻子はラーゲリで過酷な生活を送ったが生き延び、スターリンの死後に釈放された。ペレストロイカの開始後、1988年に党籍と名誉が回復された。
同じ年に亡くなった人物
- Millosh Gjergj Nikolla (1938年没)
- アブドゥラウフ・フィトラト (1938年没)
- ファイズッラ・ホジャエフ (1938年没)
- ウィリアム・グラッケンズ (1938年没)
- ジェームズ・スコット (1938年没)
同じ地域に関係する人物
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- Novella Matveyeva (2016年没)
- ブルーノ・ポンテコルボ (1993年没)
- ピョートル・デミチェフ (2010年没)
- Boris Zakhoder (2000年没)