伝記
シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、1887年12月22日、南インドのタミル・ナードゥ州タンジャーヴール県クンバコナムの、極貧のバラモン階級の家庭に生まれたインドの数学者である。純粋数学の正式な教育はほとんど受けていないが、極めて直感的で天才的な閃きにより、数学的解析、整数論、無限級数、連分数などで貢献し、「インドの魔術師」の異名を取った。幼少のころから母親に徹底したヒンドゥー教の教育を受けた。高校ではほとんどの科目で成績が悪く、高等数学の正式な教育も受けなかった。しかし15歳のとき、ジョージ・カーという数学教師が著した受験用の公式集『純粋数学要覧』に出会い、数学に没頭した。
奨学金を得てマドラスの大学に入ったが、数学に没頭するあまり他科目の授業に出なくなり、1906年12月に学位認定試験に落第し、翌年度にも再び落第して、奨学金を打ち切られた。学位を得ないまま中途退学し、しばらく独学で数学の研究を続けたのち、港湾事務所の事務員の職に就いた。上司の理解もあって、仕事を早く終えて数学の研究に没頭した。当初は孤立して研究していたが、1913年に周囲の勧めで、イギリスの数学者の教授3人に成果を記した手紙を出した。しかし全員に黙殺された。ケンブリッジ大学のハーディだけは、その手紙を読み、最初は「狂人のたわごと」程度にしか思わなかったが、やがて内容に驚愕した。明らかな間違いや既知の結果もあったが、権威である自分にも真偽を即断できないものや、自分が証明した未公表の成果と同じものが、いくつか書かれていたからである。
ハーディはラマヌジャンの研究が並外れたものだと認め、彼をケンブリッジ大学に招いた。ラマヌジャンはネヴィルの力を借りて1914年に渡英した。王立協会のフェローに選ばれたが、イギリスの生活になじめず、身体が衰弱して病気になり、1919年にインドへ帰国した。1920年4月26日に32歳の若さで病死した。病気は、結核か重度のビタミン欠乏症と言われていたが、近年の研究では赤痢を併発していたことから、アメーバ性肝炎とされている。ハーディに宛てた最後の手紙は、彼がまだ新しい数学的アイデアや定理を生み出し続けていたことを物語る。
短い生涯の間に、独自に3,900近い結果(ほとんどが恒等式と方程式)をまとめた。ラマヌジャン素数、ラマヌジャンのシータ関数、分割式、模擬シータ関数など、型破りな結果は、まったく新しい分野を開拓した。何千もの結果のうち、一、二ダースを除いて、すべて正しいことが現在証明されている。大学で系統的な数学教育を受けなかったため、「証明」という概念を持たず、得た「定理」に彼なりの理由づけをするにとどまった。ハーディは直感性を損ねることを恐れて証明を押し付けず、朝にラマヌジャンが持ってきた半ダースもの「定理」を、1日かけて証明する方法をとった。ハーディは数学者を1点から100点で評価し、自分は25点、ヒルベルトは80点としたが、ラマヌジャンには100点を与えた。1918年2月ごろ、療養所の彼を見舞ったハーディが、乗ってきたタクシーの番号1729を特徴のない数だと言うと、ラマヌジャンは、2通りの二つの立方数の和で表せる最小の数だと即座に答えたという。1997年には、彼の影響を受けた研究を載せる『ラマヌジャン・ジャーナル』が創刊され、2005年にはラマヌジャン賞も創設された。2015年にはイギリスで伝記映画「奇蹟がくれた数式」が制作された。
同じ年に亡くなった人物
- ダンカン・マクドゥーガル (1920年没)
- ルイス・マリア・デ・オルレアンス・エ・ブラガンサ (1920年没)
- ドミトリー・イワノフスキー (1920年没)
- 柳寛順 (1920年没)
- ノーマン・ロッキャー (1920年没)
同じ地域に関係する人物
- Subramanya Bharathi (1921年没)
- バヌマティ・ラーマクリシュナ (2005年没)
- ロバート・コールドウェル (1891年没)
- ワズィール・アリー・ハーン (1817年没)
- J・ジャヤラリター (2016年没)