HISTORICAL PERSON · 1189年没

源義経

平安末期から鎌倉初期の武将で、源頼朝の異母弟。奥州の藤原秀衡に庇護され、頼朝の挙兵に参じて木曽義仲を討ち、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅ぼした。のち頼朝と対立して朝敵とされ、衣川館で自刃した。

生涯
1189年没
死亡地
日本(岩手県 / 高舘義経堂)
出生地
律令日本(平安京)
出典
世界地図
日本(岩手県)

伝記

源義経は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟である。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、牛若丸と名づけられた。母は九条院の雑仕女の常盤御前である。平治元年(1159年)の平治の乱で父が謀反人として敗死すると、数え2歳の牛若は、母の腕に抱かれ、同母兄の今若、乙若とともに大和国へ逃れた。のち常盤は都へ戻り、今若と乙若は出家した。常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳で鞍馬寺の覚日和尚に預けられ、遮那王と名乗った。やがて僧になることを拒んで寺を出奔し、承安4年(1174年)3月3日、鏡の宿で自ら元服して、奥州藤原氏の藤原秀衡を頼って平泉へ下った。義経が確かな歴史に現れるのは、黄瀬川で頼朝と対面した22歳から、自害する31歳までの9年間で、前半生には記録がほとんどない。

治承4年(1180年)8月17日に頼朝が伊豆国で挙兵すると、義経は秀衡が差し向けた佐藤継信、忠信の兄弟ら数十騎とともに馳せ参じ、黄瀬川の陣で涙の対面を果たした。頼朝は、義経と弟の範頼に遠征軍の指揮を任せた。寿永2年(1183年)閏10月、頼朝は中原親能とともに義経を代官として都へ送った。11月には近江国に着いたが、軍勢は500騎から600騎にすぎなかった。法住寺合戦で木曽義仲が後白河院を幽閉すると、義経は伊勢国で兵を増やした。翌寿永3年(1184年)正月20日、範頼とともに総攻撃を始め、宇治川の戦いで志田義広を破って入京し、逃げた義仲は粟津で討たれた。2月4日には三草山で夜襲により平資盛らを破り、7日の一ノ谷の戦いで、精兵70騎を率いて鵯越の崖から逆落としをかけ、平氏の本陣を奇襲して大勝した。6月の除目で範頼ら3人は国司になったが、義経は任ぜられなかった。8月、後白河法皇から左衛門少尉、検非違使に任じられた。元暦2年(1185年)2月、暴風雨のなか少数の船で出撃し、屋島を奇襲して平氏を敗走させた。3月24日、壇ノ浦の戦いで勝利して平氏を滅ぼし、4月24日に京都へ凱旋した。

しかし頼朝との間は悪くなった。許可なく官位を受けたことや、平氏との戦いでの独断専行が頼朝の怒りを買ったといわれる。侍所所司として義経を補佐した梶原景時は、「義経はしきりに追討の功を自分一人のものにしている」と頼朝に書き送った。義経は、壇ノ浦で捕らえた平宗盛父子を連れて鎌倉へ向かったが、頼朝は鎌倉入りを許さなかったとされ、腰越で書いた書状が「腰越状」だと伝わる。ただ、この書状は後世の偽文書とみる見方が大勢で、実際には鎌倉に入っていたとする説も有力である。6月9日、頼朝から帰洛を命じられた義経は、頼朝を深く恨み、「関東に怨みを成す者は義経に従え」と言い放ったという。頼朝は義経の所領をすべて没収した。6月21日、義経は近江国で宗盛父子を斬首した。8月16日に伊予守に任じられたあとも、検非違使を兼ねつづけた。10月、頼朝は義経の討伐を決めて土佐坊昌俊を京へ送った。義経は朝敵とされ、全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、ふたたび秀衡を頼った。秀衡の死後、頼朝に追及された当主の藤原泰衡に攻められ、1189年、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。その最期は多くの人の同情を引き、「判官贔屓」という言葉をはじめ、多くの伝説や物語を生んだ。

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