HISTORICAL PERSON · 紀元前160年没

アルタクシアス1世

初代アルメニア王。セレウコス朝から自立してアルメニア王国を樹立し領土を拡張、新都アルタハタを建設してヘレニズム化を進めた。

生涯
紀元前160年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アルタクシアス1世は、紀元前230年頃に生まれ、紀元前160年または159年に没した初代のアルメニア王である。在位は紀元前189年または188年から紀元前160年または159年とされる。名はアルメニア語でアルタシェスといい、ペルシア人名のアルタクセルクセスやアルダシールに対応する。「敬虔王」とも呼ばれ、現代のアルメニア史学では「征服者」の異名で呼ばれることもある。自身のアラム語碑文では「善き者」と称している。

出身は、古くからアルメニアを治めたオロンテス朝の一族である。ただし本家ではなく、別の分家に属していたと考えられている。アケメネス朝やセレウコス朝のもとで太守としてアルメニア一帯を治めた家に連なり、父はシュニクの豪族ザリアドレスとされる。碑文の父ザレフとこのザリアドレスが同一人物かどうかには異論もある。ストラボンはアルタクシアスとザリアドレスをセレウコス朝のアンティオコス3世の将軍と伝えるが、アルメニアで見つかったアラム語の境界石には、アルタクシアス自身が「オロンテス朝の王」「ザレフの子」と刻まれており、外から来たマケドニア人の将軍ではなく土着の王家の一員だったことが明らかになった。アルメニアへのパルティアの進出を警戒したアンティオコス3世は彼を支持し、紀元前200年頃には父とともにオロンテス朝への反乱を起こしたとされる。大アルメニアの軍総督の地位を与えられ、ザリアドレスはソフェネの軍総督となった。最後のオロンテス朝の王を倒したことについては、のちのアルメニアの歴史家モヴセス・ホレナツィが物語のような記述を残している。それによれば、アルタクシアスはウティクから攻め入ってエルアンドの軍を破り、都エルアンダシャトを味方のスムバトとともに包囲して陥落させ、エルアンドは一人の兵士に殺された。ただし、この話はアレクサンドロス物語の戦いを下敷きにしたものだという見方もある。

紀元前190年頃、マグネシアの戦いでアンティオコス3世がローマに敗れると、アルタクシアスとザリアドレスはセレウコス朝に背いて独立の王を名乗った。紀元前189年または188年のアパメイアの和約によって、正式にアルメニアの王号を与えられたとされる。史上最初のアルメニア人による独立国家であり、現代の研究者は彼を独立したアルメニア国家の創始者とみなす。二人は同盟して領土を広げた。アンティオコスの後継者セレウコス4世は新たな戦争を避けたため、その征服は妨げられなかった。アルタクシアスの王国は東はメディア、北はセヴァン湖の北西、西はエルズルムに及び、メディア・アトロパテネからはカスピ海沿岸の領土を奪った。クラ川が大アルメニアの北から北東の境となった。ストラボンによれば、これらの地の住民は同じ言語、すなわちアルメニア語を話すようになった。ただし、公的な書き言葉にはアラム語や古代ギリシア語が使われた。父が治めていたソフェネの併合も試みたが、これは失敗した。

拡大した王国を治めるため、アルタクシアスはいくつかの行政改革を行った。またオロンテス朝の影響を脱するため、アラクス川左岸にヘレニズム様式の新首都アルタハタ(アルタシャト)を建設した。この都は大きな商業都市に成長した。

紀元前165年、シリア沿岸とメソポタミアの奪還を狙うセレウコス朝のアンティオコス4世の攻撃を受け、アルタクシアスは敗れた。しかし貢納と引き替えに解放され、アルメニアの支配を続けた。紀元前160年または159年に没し、王位は息子のアルタヴァスデス1世に受け継がれた。

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