伝記
アンドリュー・カーネギーは、1835年11月25日にスコットランドのダンファームリンで手織り職人の長男として生まれ、1919年8月11日に没した、スコットランド生まれのアメリカの実業家である。「鉄鋼王」と称された。生家の一階の半分を占める部屋は、隣の手織り職人一家と共有で、居間にも食堂にも寝室にも使われた。名は祖父にちなんでつけられた。1836年、父ウィリアムがダマスク織りで儲けたため、やや広い家に移った。当時のイギリスの織物産業は、蒸気機関の力織機を使う工場に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなったため、1848年に両親はアメリカのペンシルベニア州アラゲイニー(現在のピッツバーグ)への移住を決めた。移住の費用も借金する必要があった。当時のアラゲイニーは貧民街だった。
13歳で初めて就いた仕事は綿織物工場のボビンボーイで、織機を操作する女性工員にボビンを供給する係として、1日12時間、週6日働いた。当初の週給は1.20ドルだった。父は綿織物工場で働いたのち、リンネルを織って行商した。何度か転職し、1850年、叔父の勧めもあってオハイオ電信会社のピッツバーグ電信局で電報配達の仕事に就いた(週給2.50ドル)。非常に働き者で、ピッツバーグの企業の位置と重要な人物の顔をすべて記憶し、そうして多くの関係を築いていった。当時の電信局では、受信したモールス信号を紙テープに刻み、テープから文字に解読して電報を作っていたが、カーネギーは信号を耳で聞き分ける特技を身につけ、1年以内に電信技士に昇格した。ジェームズ・アンダーソン大佐が、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人蔵書を開放しており、カーネギーはそこで勉強して読書好きになった。
1853年、ペンシルバニア鉄道のトマス・スコットがカーネギーを秘書兼電信士として引き抜き、週給は4ドルになった。スコットが副社長に昇進すると、カーネギーが代わりにピッツバーグの責任者になった。鉄道会社はアメリカ初の大企業群で、そのなかでもペンシルバニア鉄道は最大であり、カーネギーはスコットから経営と原価管理について多くを学んだ。1855年、スコットは500ドルで株式を買う話を持ちかけ、母が700ドルの家を抵当に入れて500ドルを工面した。数年後、発明家のウードルフが寝台車の案を持ちかけ、カーネギーは借金をして寝台車の会社に出資し、大成功を収めた。得た資金を、鉄鋼業、橋梁建設業、レール製造業などの鉄道関連の会社に再投資し、後の成功の基盤を築いた。
南北戦争が始まった1861年春、軍隊輸送の責任者に任命されたスコットは、カーネギーを東部の軍用鉄道と政府の電信網の監督に任命した。カーネギーは、南軍によって寸断されたワシントンまでの鉄道の再建を支援し、ブルランでの北軍の敗北の直後には、旅団を運ぶ機関車に乗り込んだ。戦後は鉄道会社を辞めて製鉄業に専念し、1865年にピッツバーグで製鉄所を創業した。ペンシルバニア鉄道の経営陣とは密接な関係を保ち、同社は彼の最大の顧客となった。1874年に完成したイーズ橋では、鋼の材料を提供するとともに、事業にも出資し、鋼の技術的優位性を実証した。1887年、52歳のとき、30歳のルイーズ・ホイットフィールドと結婚し、1897年に一人娘マーガレットが生まれた。ベッセマー法の採用による鋼の大量生産と、原材料の供給元まで含めた垂直統合で成功し、1892年には所有する会社をまとめてカーネギー鉄鋼会社を創業した。
同じ年に亡くなった人物
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