伝記
ヘンリー・ワズワース・ロングフェローは、1807年2月27日にメイン州ポートランドで、スティーヴン・ロングフェローとジルパー・ワズワース・ロングフェロー夫妻の子として生まれたアメリカ合衆国の詩人である。代表作に「ポール・リビアの騎行」「人生讃歌」「ハイアワサの歌」「エヴァンジェリン」があり、ダンテの「神曲」をアメリカで初めて翻訳した人物でもある。「炉辺の詩人」5人組の1人として知られる。父は弁護士で、母方の祖父はアメリカ独立戦争を戦った将軍だった。ロングフェロー家は1676年にイギリスのヨークシャーから新大陸に渡ってきた一家であり、母方からはメイフラワー号の乗船者たちの血も受けていた。兄弟は7人いた。読み書きに大変優れ、3歳で私塾に入学し、6歳でポートランド・アカデミーに入った。1822年、14歳でブランズウィックのボウディン大学に入学し、ここで生涯の友となるナサニエル・ホーソーンと出会った。
1825年にボウディン大学を卒業すると、言語学の研究のために何度かヨーロッパに派遣するという条件付きで、同大学の教授職の申し出を受けた。1826年から1829年の間、イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、イタリア、スペインを旅し、帰国後は同大学で初めての現代言語学教授となり、非常勤司書も務めた。この時期にフランス語、イタリア語、スペイン語の教本を書き、旅行記「海を越えて」を著している。1831年にポートランドのメアリー・ストーラー・ポッターと結婚した。ハーバード大学のフランス語とスペイン語の教授職を得て、1年ほどの海外留学に出たが、旅の途上のロッテルダムにいた1835年に、妻メアリーは流産の後、22歳で亡くなった。その3年後、メアリーとの愛に着想を得て「天使の足跡」を書いた。
1836年にアメリカに戻ってハーバードの教授となり、ケンブリッジに移り住んで、終生そこにとどまった。ただし、夏の間だけはナハントで過ごした。この頃に詩集の刊行を始め、1839年に「夜の声」、1841年に「バラードと他の詩」を出した。後者には有名な詩「村の鍛冶屋」が入っている。1842年にはドイツのライン地方に詩人のフライリヒラートを訪ね、終生の交友を結んだ。ボストンの裕福な実業家ネイサン・アップルトンの娘フランシス(ファニー)と交際を始め、ハーバードからボストンの彼女の家まで橋を越えて歩いて通った。この橋は老朽化して1906年に架け替えられ、ロングフェロー・ブリッジと名づけられた。7年後にファニーが結婚に同意し、1843年に二人は結婚した。ネイサンはチャールズ川を見下ろす「クレーギー・ハウス」を祝いに購入した。二人の間には6人の子が生まれた。1854年にハーバードを退職して著述に専念し、1859年には同大学から名誉博士号を受けた。
しかし1861年7月9日、ファニーが子供の髪の房を封筒に入れて封蝋で封をしようとしていたときに衣服に引火し、重い火傷を負って、翌10日に44歳で死去した。ロングフェローは深く落胆し、終生立ち直れなかった。その悲しみの強さは、18年後にファニーの思い出に書いたソネット「雪の十字架」からも見て取れる。1877年の70歳の誕生日には、パレードや講演会、詩の朗読会が行われ、国民の休日のようであった。1882年3月24日、5日間腹膜炎を患った後に死去し、二人の妻が眠るケンブリッジのマウント・オーバーン墓地に埋葬された。1884年には、アメリカの詩人として初めて、ロンドンのウェストミンスター寺院の詩人のコーナーにその胸像が置かれた。
同じ年に亡くなった人物
- カール・フリードリッヒ・ツェルナー (1882年没)
- ユリウス・ヒューブナー (1882年没)
- ミハイル・スコベレフ (1882年没)
- Mutercim Rusdu Pasa (1882年没)
- セルゲイ・ネチャーエフ (1882年没)
同じ地域に関係する人物
- デビッド・マー (1980年没)
- Justin McCarthy (1976年没)
- Jan van Breda Kolff (1976年没)
- ティモシー・ピカリング (1829年没)
- ヘイゼル・ホッチキス・ワイトマン (1974年没)