伝記
セシル・ド・ノルマンディーは、1056年ごろに生まれた女性で、イングランド王ウィリアム1世と王妃マティルダ・オブ・フランダースの娘であり、カーンのサント・トリニテ修道院の院長を務めた。最年長の娘とみなされており、ウィリアム赤顔王とヘンリー碩学王は彼女の兄弟にあたる。ただし、年代記作家のマームズベリのウィリアムは彼女を長女としたが、オルデリック・ヴィタルは、兄リシャールより年上かどうか確信がなかったため子どもたちの順に彼女を入れなかったといい、次女だったともいわれる。兄弟のなかでも最年長の兄ロベール2世とはとくに親しかった。
1066年6月、母が設立したカーンの修道院が正式に開かれると、セシルは幼いうちに両親の手でそこへ入れられた。この修道院は、母が、自らの結婚が当初は禁じられた近親の間柄とみなされたことの償いとして、またイングランド侵攻の準備のさなかに創設したものである。こうして子を教会にささげることは当時の貴族の親にとって珍しくなく、貴族の娘は修道院で自分の家政や聴罪司祭を持ち、客を私室で迎えることも許されるなど、独身の貴族女性の多くよりも自由な暮らしをしたという。彼女は修道院長マティルダのもとで教育を受け、学識者アルヌルフ・ド・ショクから、芸術、ラテン語、修辞学、論理学を学んだとされる。1075年には、フェカンで盛大な儀式が催され、ルーアン大司教の手で修道女の誓いのヴェールを受けた。1083年の母の葬儀はこの修道院で行われ、そこに居合わせたことが確認できる子はおそらく彼女だけだった。
1100年、第1回十字軍からの帰途にあったロベール2世が彼女を訪ね、奪い取ったサラセン人の旗を彼女と修道院に贈った。セシルは修道院内で順調に務めを重ね、いくつかの改善を行い、親族の院長マティルダの補佐役として長く支えた。1112年、この院長マティルダの後を継いでカーンのサント・トリニテ修道院の院長となった。就任を1113年とする説もある。ドルの大司教バルドリックや詩人のル・マンのヒルデベルトは、彼女の評判の高さを伝えており、ヒルデベルトは彼女を「女王にして女神、天上の夫と結ばれた王家の処女」と呼んだ。
セシルは1126年にカーンで亡くなった。日付は6月30日とも7月30日ともいわれ、1127年7月13日没とする説もある。葬られた場所は、修道院の壁の中とも、聖堂の修道女たちの席の主軸上で母の墓の向かいともいわれる。壁の中の墓は、見つけ出せるような開口部が残されないまま塗りこめられているという。父もカーンに葬られている。
同じ年に亡くなった人物
- オフリドのフェオフィラクト (1126年)
- ウラカ (カスティーリャ女王) (1126年没)
- スヴァタヴァ・ポルスカー (1126年没)
- アフマド・ガザーリー (1126年没)
- ヴルフヒルト・フォン・ザクセン (1126年没)
同じ地域に関係する人物
- フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー (1874年没)
- ジャン3世 (ブルターニュ公) (1341年没)
- アラン・ロブ=グリエ (2008年没)
- ニコル・オレーム (1382年没)
- マルク・カモレッティ (2003年没)