HISTORICAL PERSON · 1918年没

マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)

最後のロシア皇帝ニコライ2世の第三皇女。第一次世界大戦中は病院の後援者として負傷兵を見舞った。二月革命後に監禁され、1918年7月にエカテリンブルクで19歳で銃殺され、2000年に列聖された。

生涯
1918年没
死亡地
ロシア連邦(スヴェルドロフスク州 / イパチェフ館)
出生地
ロシア連邦(ペテルゴフ)
出典
世界地図
ロシア連邦(スヴェルドロフスク州)

伝記

マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァは、1899年6月26日(ロシア暦6月14日)に生まれた、最後のロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第三皇女である。ペテルゴフの離宮で誕生し、妊娠中のアレクサンドラは数回気絶し、車椅子生活を余儀なくされていた。ニコライ2世は日記に、無事に三女が生まれたことを神に感謝すると書き、妹のクセニアは、息子ではなかった失望を記した。四人姉妹は仲が良く、マリアは特に妹のアナスタシアと仲がよく、一つの寝室を共用していた。姉のオリガとタチアナは「大きなペア」、下の二人は「小さなペア」と呼ばれた。四人は結束の象徴として、頭文字を合わせた合同のサインを使っていた。祖父アレクサンドル3世の代からの質素な生活の影響で、姉妹は厳しく育てられ、病気の時以外は枕なしの固い簡易ベッドで眠り、朝に冷水浴をした。

1905年からニコライ2世は妻子をツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿に常住させ、五人の子供たちは外界とほとんど絶たれ、アレクサンドラに溺愛されて育った。マリア皇太后を筆頭とするロマノフ家の親戚は、アレクサンドラの生活や子供の育て方を認めず、長年一家との交際を避けた。叔母のオリガ・アレクサンドロヴナだけが同情的で、毎週土曜日にやって来て母を説得し、姉妹を町に連れ出した。マリアは明るい茶色の髪と大きな青い瞳の持ち主で、家族は彼女の瞳を「マリーのソーサー」と呼んだ。幼いころは、細身の二人の姉と違ってぽっちゃりと丈夫に育ち、母は将来の結婚を考えて体重の増加を心配したほどだった。穏やかな気性だったが、母のティーテーブルからビスケットを盗むいたずらもした。罰を示唆する母に、ニコライ2世は反対した。マリアは父が大好きで、1901年に父が腸チフスで瀕死になったときは、小さな肖像画に毎晩キスをした。

フランス語の家庭教師は彼女を親切で温かい心の持ち主と述べ、姉たちは「小さな太ったワンちゃん」と呼んだ。1912年6月14日には、ロシア帝国陸軍の名誉連隊長に任命された。スケッチの才能があり、左利きだったと言われ、学業には無関心だった。十代後半には、英語の家庭教師を持ち上げるほどの怪力も見せた。マリアが最も興味を持ったのは、結婚や子供についてのお喋りで、ロシアの兵士と結婚して子供は二十人欲しいと語ったこともある。いとこで一歳年下のルイス・マウントバッテンは彼女に夢中になり、結婚することに決めたと書いた。彼は、1979年に爆殺されたとき、寝室のベッドの横にマリアの肖像写真を飾っていた。1915年にはルーマニアの王太子カロルが婚約を申し込んだが、ニコライ2世は、まだ若過ぎるとして取り合わなかった。

第一次世界大戦中、マリアは二人の姉のように赤十字の看護師になるには若過ぎたため、病院の後援者となって負傷した兵士を見舞った。モギリョフの総司令部を訪れた際には、当直将校のデメンコフに恋愛感情を抱き、シャツを縫って贈った。しかしロシア革命の勃発により、交際には至らなかった。1917年の二月革命で成立した臨時政府によって、家族とともに監禁された。翌1918年7月17日未明、エカテリンブルクのイパチェフ館で、ヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊により、家族や従者とともに十九歳で銃殺された。1991年に皇帝一家の遺骨が発掘されたときには、マリアの遺骨は欠けていたが、2007年に別の場所で発見され、DNA鑑定で一家全員の死が証明された。2000年にロシア正教会によって新致命者として列聖された。

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