伝記
タチアナ・ニコラエヴナ・ロマノヴァは、1897年6月10日(ロシア暦5月29日)に生まれ、1918年7月17日に没した、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラの第二皇女である。ロシア大公女。1917年の二月革命で成立した臨時政府に、家族とともに監禁された。十月革命で権力を握ったボリシェヴィキの命を受けたチェーカー(秘密警察)により、翌1918年7月17日、裁判手続きを踏まない形で、エカテリンブルクのイパチェフ館において、家族や従者とともに21歳で銃殺された。正教会では聖人(新致命者)とされる。
タチアナは細身で背が高く、赤褐色の髪に濃い青灰色の瞳をもち、洗練された彫刻のような高貴な顔だちから、4姉妹の中で最も美貌の皇女といわれた。長姉のオリガに代わって、生来のリーダーシップで子供たちをまとめ、妹たちからは「女性家庭教師」と呼ばれて慕われた。姉妹の誰より母と親密で、母と娘たちの意思疎通に心を砕き、母の最愛の娘であった。姉のオリガととても仲がよく、周囲はこの二人を「ビッグ・ペア」と呼び、妹のマリアとアナスタシアの二人は「リトル・ペア」と呼ばれた。4人は名前の頭文字を並べた共通のサインを結束の象徴として使った。控えめで信心深く、バランスのとれた気性の持ち主で、手先が器用で、手細工や刺繍が得意だったという。1911年9月、キエフのオペラハウスで観劇中の父の御前でストルイピン首相が撃たれた瞬間を、姉とともに父の後ろで目撃した。タチアナはすすり泣き、その夜は二人とも眠れなかった。
第一次世界大戦では、母と姉とともに看護師として従軍し、負傷した兵士たちの手当をして、何十人かの最期を看取った。セルビア国王ペータル1世は、息子のアレクサンダル王子の花嫁としてタチアナを望んだとされる。縁談は戦争の勃発で終わったが、タチアナはその後もアレクサンダルと手紙を交換し、王子は彼女の死を知ったとき取り乱したという。監禁生活のなかでは、関節炎で歩けなくなった母や、重病の弟アレクセイと一緒に座り、弟の遊びに付き合ったり、母に朗読を聞かせたりして多くの時間を過ごした。姉妹は自分たちで洗濯をし、パンを作らなければならなかった。医師ボトキンのために、腎臓の痛みを和らげるモルヒネの注射を、看護の技術を持つタチアナが引き受けた。荷物検査が厳しくなると、姉妹を代表して母の宝石を衣服に縫い付けた。
1918年7月16日の夜、一家は遅い時間に起こされ、市内の情勢が不穏だとして、館の地下に降りるように言われた。そこで銃殺隊が入室し、指揮するユロフスキーが処刑の実行を告げた。7月17日の早朝のことだった。タチアナはユロフスキーの撃った一発の弾丸によって即死した。遺体は、殺害から80年後の1998年7月17日に、サンクトペテルブルクのペトロパヴロフスキー大聖堂に安置された。タチアナは家族とともに、2000年にロシア正教会によって列聖された。それより20年近く前の1981年にも、在外ロシア正教会によって聖なる殉教者として列聖されていた。1971年のイギリス・アメリカ映画『ニコライとアレクサンドラ』などにも登場する。
同じ年に亡くなった人物
- アントニオス・ペパノス (1918年没)
- ジョン・L・サリバン (1918年没)
- フェルディナント・ホドラー (1918年没)
- ルイ・エドゥアール・ビューロー (1918年没)
- ヘルマン・コーエン (1918年没)
同じ地域に関係する人物
- セルゲイ・ミハイロヴィチ (1918年没)
- アンドレイ・プロコフィエフ (1989年没)
- パヴリク・モロゾフ (1932年没)
- イオアン・コンスタンチノヴィチ (1918年没)
- ウラジーミル・パーリィ (1918年没)