伝記
ゲオルギー・ヴァレンチノヴィチ・プレハーノフは、1856年12月11日(ユリウス暦11月29日)に、タンボフ州グダロフカの、タタール系の世襲貴族の家に生まれた、ロシアの社会主義者である。「ロシア・マルクス主義の父」と称される。生涯にわたって、ヴォルギンやウシャコフ、カメンスキーなど、おびただしい偽名を用いていた。父ヴァレンチンは小地主で、約270エーカーの土地と約50人の農奴を持ち、クリミア戦争や1863年のポーランド蜂起の鎮圧に従軍した軍人であった。1861年の農奴解放令には反対し、領地の半分を失ったが、資本主義の新しい条件に適応しようとした。子供たちに、男らしさや勇気、自立心を教え、怠惰を戒めたが、厳格で、ときに暴力的だったと、子供たちや元農奴に評された。母マリアは、文芸批評家ベリンスキーの遠縁にあたる、優しく思いやりのある女性で、ゲオルギーは五人の子の最初だった。母は、早くから読み書きを教え、彼の知的な関心を励まし、利他心と正義感を植えつけたと、彼は後に回想している。
10歳のとき、ヴォロネジの陸軍士官学校に入れられた。そこで教師ブナコフの影響を受け、文学への愛と、ロシアの民衆への責任感を植えつけられ、ベリンスキーやチェルヌイシェフスキーら急進的な批評家の著作を知った。詩人ネクラーソフにも影響され、民衆の苦しみへの深い同情を抱いた。この間に、母の正教の信仰を捨てて、無神論者となった。1873年に士官学校を終えて、ペテルブルクの軍学校に入ったが、軍事教練への関心は薄れ、1学期で退学して、鉱山学校の入学試験の準備をした。1875年、19歳で革命運動に投じ、ナロードニキの秘密結社「土地と自由」の指導者の一人となった。1879年に土地と自由が分裂した際は、「人民の意志」に反対する土地総割替派の指導者となった。
1880年に国外に亡命し、ジュネーヴに居住した。ナロードニキからマルクス主義者となり、1882年にマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』をロシア語に訳して公刊した。1883年秋、ヴェーラ・ザスーリチ、パーヴェル・アクセリロードらとジュネーヴで労働解放団を組織し、ロシア最初のマルクス主義団体となった。マルクス主義文献を翻訳して故国に働きかけ、当時のロシア知識人に、絶大な威信をもった。1885年の『われわれの意見の相違』では、人民主義者を批判し、革命の前提条件を満たさない革命は、専制主義に等しい「政治的怪物」になるだろうと述べた。1889年に第二インターナショナルの創立に参加し、1900年にはレーニンらとともに『イスクラ』紙の編集をした。
1903年、ロシア社会民主労働党の第2回大会後まもなく、メンシェヴィキに与した。1904年に日露戦争が起こると、アムステルダム大会の開会式で、交戦中の日本の代表、片山潜と握手し、労働者の反戦を訴えた。第一次世界大戦では、ドイツに対する戦争に賛成し、1917年の二月革命後に帰国して、最初は熱狂的に歓迎されたが、レーニンらの体制に幻滅し、十月革命を「史上最大の災厄」と批判した。翌日に家宅捜索を受け、密かに出国した。1918年5月30日、フィンランドのテリヨキで結核により死去し、ペトログラードのヴォルコフスコエ墓地の、ベリンスキーの墓近くに葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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