伝記
ニコライ・アレクセーヴィチ・ネクラーソフは、1821年12月10日(ユリウス暦11月28日)に、ポジーリ県(現在のウクライナのヴィーンヌィツャ州)で生まれた帝政ロシア時代の詩人、雑誌編集者である。落ちぶれた地主貴族の子で、父アレクセイは帝国陸軍の将校だった。子供時代の多くはヴォルガ川のほとりで過ごし、のちにその雄大さと悲惨さを詩に歌った。父は専制的で残酷な人物で、狩猟や騒がしい酒宴を催し、農奴に折檻や虐待を加える場面が、のちの詩人の心に深い印象を残したとされる。1832年にヤロスラヴリ市のギムナジウムに入学したが、学業は振るわず、第5年級で中退した。その年、雑誌『祖国の子』に最初の詩が載った。
父の意志にそむいて軍隊ではなくペテルブルクで大学文科の聴講生となったため、仕送りを絶たれ、家庭教師や文筆の仕事で食いつなぐことになった。大学の入学試験に通らなかったともいい、貧しい暮らしの中で、市場で代筆の手紙を書いて食事の糧にしたという。1840年に自費出版した最初の詩集『空想とひびき』は、ロマン派の模倣としてベリンスキーに批判されたが、彼との交友を通じて、ロシアの現実の苛酷さに目覚めた。自分の道を探して書いた数編の喜劇は、好評を得たものの、彼が進みたい道ではなかった。1846年に、地主に堕落させられた娘を描き、農奴制への抗議に満ちた詩『旅にて』を発表して、ベリンスキーやゲルツェンから絶賛された。
1843年以降はさまざまな文集の編集や出版経営を始めて、次第に成功を収めた。1847年にパナーエフとともに、プーシキンが創刊した雑誌『同時代人』の発行者となり、革命的民主主義の機関誌としての地位を確立させた。チェルヌイシェフスキーやドブロリューボフらが編集同人となり、ベリンスキーをはじめ、19世紀ロシア文学の巨匠や批評家の多くが集まった。雑誌が左へ傾くにつれ、トルストイやツルゲーネフら貴族の作家は去り、ナロードニキ(人民主義者)が加わった。1866年にこの雑誌が発行禁止となると、1868年に『祖国の記録』の発行権を買い取り、死ぬまで編集と発行に当たって、進歩思想運動の合法的な機関誌とした。晩年は、ツルゲーネフらリベラル派と、ゲルツェンのような革命的民主主義者、チェルヌイシェフスキーら社会主義に近づいた人々とのあいだに見解の不一致が生じ、どうすることもできなくなっていた。
その詩は、プーシキンにもあった農民への親近感をいっそう鋭くし、詩人の社会に対する責任感を際立たせた。論争を挑み、現実の不正に抗議する形式が多く、ナロードニキにもっとも愛された。1861年の『行商人』、1863年の『赤鼻のマロース』、1870年の『おじいさん』、1873年の『デカブリストの妻』などの長詩に続いて、晩年に叙事詩『誰にロシアは住みよいか』を書いた。ボロディンやムソルグスキーが一部の詩に曲を付けており、いまも歌われている。後のマヤコフスキーやエフトゥシェンコにも影響を及ぼした。女性への敬愛も深く、母を詠んだ詩や、シベリアへ流された夫に従ったデカブリストの妻たちを讃える詩を残した。子供のための詩に『おじいさんマザイと兎たち』などがあり、晩年には病と疲労のなかで、自らの生涯を振り返る哀歌や内省的な抒情詩を書いた。全集は12巻に及ぶ。1878年1月8日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ウジェーヌ・ベルグラン (1878年没)
- カール・グツコー (1878年没)
- ヴィルヘルム・ズルピッツ・クルツ (1878年没)
- ジョージ・クルックシャンク (1878年没)
- ロベルト・デ・ヴィッサーニ (1878年没)
同じ地域に関係する人物
- ミハイル・ヴルーベリ (1910年没)
- チェーザレ・プーニ (1870年没)
- エフドキア・メクシロ (2013年没)
- ニコライ・ドブロリューボフ (1861年没)
- ボビー・ファレル (2010年没)