伝記
ツェーザリ・アントーノヴィチ・キュイは、1835年1月18日に、ロシア帝国のヴィリニュス、現在のリトアニアの首都で生まれ、1918年3月26日に没した、ロシアの作曲家、音楽評論家、軍人で、ロシア五人組の一人である。作曲者自身が用いたフランス語の表記に従い、セザール・キュイと呼ばれることが多い。10曲のオペラを残したほか、ピアノ曲『25の前奏曲』のような素朴な作品もある。五人組の中では長寿に恵まれ、厖大な作品数を残したが、実践的な軍事教練の専門家として著名で、作曲は余技であった。同時に辛辣で攻撃的な音楽評論家としても活躍したため、ロシア楽壇内では人望がなく、没年まで作曲を続けた。
フランス人の父とリトアニア人の母のあいだに生まれ、実家はローマ・カトリックの信徒で、彼は5人きょうだいの末子であった。父アントワーヌは、ナポレオン軍の兵卒としてロシアから敗走する途中、ヴィリニュスに居着き、地元の女性ユリアと結婚した。多民族的な環境で育ち、フランス語、ロシア語、ポーランド語、リトアニア語を習得した。ギムナジウムを卒業する前の1850年に、工科学校の受験準備のためサンクトペテルブルクに上京し、翌年16歳で入学を果たした。ニコライ工学アカデミーに進んだ後、堡塁建築術の指南役として、1857年に軍役に就いた。数十年にわたり多くの門弟を育て、そのなかにはニコライ2世のような皇族もいた。ペテルブルクの3つの陸軍士官学校で教え、1880年に教授、1906年には工兵大将の肩書きを得た。露土戦争(1877年から1878年)の最前線の任務にも就き、その成果にもとづく堡塁建築の研究は、彼の活動の中で最も重要なものとされる。
少年時代にヴィリニュスでピアノを始め、ショパンの作品を学び、14歳で最初の作曲を試みた。ペテルブルクに送られる数か月前には、ポーランドの作曲家モニューシュコに音楽理論の手ほどきを受けている。1856年にバラキレフと出会って、音楽への関心がいっそう真剣になった。1859年12月14日(ロシア暦で12月26日)に、アントン・ルビンシテインの指揮で上演された管弦楽曲『スケルツォ』作品1で、作曲家として公的にデビューした。1869年には、ハイネの悲劇に基づく歌劇『ウィリアム・ラトクリフ』が初演されたが、8度上演されても成功に至らなかった。刊行物での彼の毒舌のせいも少しはあったろうとされる。リストはこの歌劇に最大限の賛辞を送り、彼は著作『ロシアの音楽』やピアノ組曲作品21を老リストに献呈した。歌劇は1曲を除いてすべてロシア語で書かれ、例外はフランス語の『海賊』で、1894年にパリのオペラ=コミック座で初演されたが、4度の上演で失敗に終わった。
存命中に成功した舞台作品は、1878年の1幕の喜歌劇『マンダリーナの息子』、1883年の3幕の歌劇『カフカスの捕虜』、1903年の1幕の『マドモワゼル・フィフィ』の3点である。マリインスキー劇場のオペラ選定委員会の委員も務めたが、1883年に同委員会が、ムソルグスキーの『ホヴァーンシチナ』の受理を拒否したことに抗議して、リムスキー=コルサコフとともに辞職した。1896年から1904年までは、ロシア音楽協会ペテルブルク支部の支部長を務めた。
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