伝記
アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディンは、1833年11月12日(ユリウス暦10月31日)にサンクトペテルブルクで生まれ、1887年2月27日(ユリウス暦2月15日)に没した帝政ロシアの作曲家、化学者、医師である。ロシア音楽の作曲に打ち込んだ「ロシア5人組」の一人とされる。
グルジアのイメレティ州出身の貴族で62歳のルカ・ステパノヴィチ・ゲデヴァニシヴィリと、25歳のロシア人女性エヴドキヤ・コンスタンチノヴナ・アントノヴァの間の非嫡出子として生まれた。ゲデヴァニシヴィリは彼を実子として戸籍登録せず、ロシア人農奴ポルフィーリ・ボロディンの息子として登録した。そのため、ボロディンの姓はこの農奴の名に由来し、本人も父も、実の父の農奴という扱いになった。しかし実父は、彼が7歳のときに農奴の身分から解放し、母子のために住居と金銭を与えた。母は公には彼を認めず、少年は母を「叔母」と呼んでいた。正式な中学校には入れなかったが、家庭教師から、ピアノの稽古を含めてあらゆる科目のよい教育を受けた。
1850年にサンクトペテルブルクの医学外科アカデミーに入学し、化学を専攻した。卒業後は軍の病院で外科医として1年を過ごし、続いて西ヨーロッパで3年間、進んだ科学の研究に励んだ。この間に、ハイデルベルク大学でエルレンマイヤーの研究室に入り、ベンゼン誘導体の研究に従事して、メンデレーエフとも知り合った。ムソルグスキーとも出会い、シューマンの曲を紹介されて興味を持った。ピサではハロゲン化合物の研究をした。1862年にサンクトペテルブルクへ戻り、アカデミーの化学の教授となって、生涯、研究や講義や後進の教育に携わった。1872年には女性のための医学課程を設立している。化学者としては、とりわけアルデヒドの研究で尊敬され、ハロゲン化アルキルの合成法は「ボロディン反応」(ハンスディーカー反応)の名で呼ばれ、アルドール反応の発見者の一人ともされる。
作曲は、1862年にバラキレフと出会うまで正式に学んだことがなかった。バラキレフの教えを受けて『交響曲第1番』に着手し、1869年にバラキレフの指揮で初演された。同年に『交響曲第2番』に着手したが、1877年の初演は成功しなかった。それでも1880年にリストがヴァイマルでドイツ初演の手筈を整えたことで、ボロディンの名はロシアの外にも広まった。やはり1869年にはオペラ『イーゴリ公』に着手し、これが最も重要な作品とみなされている。しばしば単独で演奏される「ポロヴェツ人の踊り」は、この歌劇の曲である。本職や公務に忙殺されたため生前には完成できず、没後にリムスキー=コルサコフとグラズノフが補筆と改訂を進めた。
化学者として収入を得ていたため、「日曜作曲家」を自称し、多作ではなかったが、2つの交響曲、交響詩『中央アジアの草原にて』、「夜想曲」で名高い『弦楽四重奏曲第2番』などはますます盛んに演奏されている。1880年代には仕事と病気のため作曲の時間がほとんどなかった。1887年、謝肉祭の週間に、数人の友人を呼んで上機嫌に歌って踊っていたが、突然ひどく青ざめて卒倒し、急死した。動脈瘤の破裂だったとされる。アレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフヴィン墓地に葬られた。
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