伝記
マルクス・クラウディウス・マルケッルスは、共和政ローマの平民出身の政治家・軍人で、紀元前196年に執政官を務めた人物である。紀元前236年頃に生まれ、紀元前177年に没した。執政官を5回務めて「ローマの剣」と称された同名の将軍の息子であり、第二次ポエニ戦争に従軍して、父が戦死した戦いにも加わっている。クラウディウス氏族の出身で、この家は初期には貴族の家系クラウディウス・クラッスス家の被護者の立場にあった。
最初の記録は、父が按察官だった頃の出来事である。平民按察官または護民官のガイウス・スカンティニウス・カピトリヌスが少年のマルケッルスに性的行為をしようとし、父が訴えを起こした。カピトリヌスは否認したが、元老院は涙を浮かべた少年の言い分を信じて罰金刑を言い渡し、父は感謝のしるしに銀の酒盃を神々に奉納したという。紀元前208年にはアプリアで、父の軍の軍団高級士官としてハンニバルと対峙した。偵察に出た父の一隊はヌミディア騎兵の待ち伏せを受け、父は戦死し、息子は負傷しながらも脱出した。ハンニバルが父の遺体を火葬して遺灰を息子に送ったと伝えられ、息子はその遺灰を前に葬儀の演説を行った。紀元前205年には、父が約束していた「名誉と徳の神殿」の奉献式を行っている。
紀元前204年に護民官となり、これが最初の高位官職であった。スキピオ軍がロクリで騒動を起こすと、元老院の政敵たちが調査団を作ってシキリアへ送り、マルケッルスも同僚とともにその一員に選ばれたが、遠征の準備が整っていたため、元老院はスキピオに有利な判断を下した。紀元前200年に上級按察官となって穀物を1モディウス2アスの安値で市民に提供し、競技会を催し、罰金収入でサートゥルヌス神殿に銅像5体を奉納した。紀元前198年には法務官としてシキリアに赴任した。
紀元前196年に執政官となり、同僚はルキウス・フリウス・プルプレオであった。マケドニアとの講和交渉が進んでいたにもかかわらず、両執政官は出征を望んだ。マルケッルスは、ピリッポス王はすぐ戦争を再開するだろうと元老院を非難した。しかし市民は講和に賛成し、二人はイタリア北部の担当となった。北イタリアでガリア人と戦ったマルケッルスは、奇襲で損害を受けながらも後の戦闘で勝ち、インスブリ族を破ってコムムと28の砦を占領した。古代の記録は敵の殲滅を述べるが、現代の研究では誇張とされ、戦いはその後も続いた。任期中には神祇官にも選ばれた。ハンニバルの引き渡しを求めてカルタゴへ送られた使節の中にも名が見え、これが紀元前195年のことならば本人の可能性がある。
紀元前193年には執政官メルラの副官として北部国境で戦って勝利し、メルラの指揮を私信で非難したうえ、その軍を引き継いだ。紀元前189年には監察官に立候補した。激しい選挙となったが、有力視されたグラブリオが告発で脱落し、マルケッルスは平民の候補として有利になり、フラミニヌスとともに当選した。大カトは政敵であるとも、長く後援者であったともされる。監察官としては、元老院議員の名簿から除いたのは4名にとどめ、名簿の筆頭にスキピオ・アフリカヌスを置いた。騎士名簿の見直しは寛大に行い、カピトリヌスの丘を要塞化し、市内の道路を舗装した。紀元前186年にはバッカス祭をめぐる元老院の布告の証人の一人となり、紀元前177年に世を去った。
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