HISTORICAL PERSON · 1176年没

六条天皇

第79代天皇。数え2歳で即位して歴代最年少の天皇となり、在位2年8か月で祖父後白河上皇の意向により叔父の高倉天皇に譲位、歴代最年少の上皇となった。元服せず数え13歳で崩御し、后妃も子もなかった。

生涯
1176年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

六条天皇は、日本の第79代天皇で、諱を順仁という。1164年12月28日(長寛2年11月14日)に生まれた。二条天皇の第二皇子で、第一皇子は大僧都尊恵だが、六条天皇を第一皇子とみなす場合もある。母は松尾大社の社家の出で、大蔵大輔伊岐致遠の娘だった。母の身分が低かったため、父帝の中宮藤原育子を母后と公称した。

父の二条天皇は、在位中に親政を行おうとして後白河院と対立し、異母弟の憲仁親王を擁立しようと図ったとして、憲仁親王の叔父平時忠を流罪にした。平教盛、藤原成親、坊門信隆も官を解かれ、後白河院の院政は止められた。しかし、二条天皇を次の治天と定めていた鳥羽法皇と美福門院を失ったあと、天皇の立場は極めて不安定になり、病に倒れた。母方の力がきわめて弱い六条天皇を後継者と定めたが、院政を行うこともできないまま、崩御した。

1165年8月3日(永万元年6月25日)、数え2歳(満7か月と11日)で、親王宣下と立太子を受け、その日のうちに践祚した。歴代でもっとも若い即位である。その1か月後、7月27日に即位式が行われたが、途中で泣き出して中断した。参議の中山忠親は、「赤ん坊には儀式よりも乳のほうが大切だ」と機転を利かせ、乳母で蔵人頭藤原邦綱の娘成子が、あわてて乳を飲ませて、やっと落ち着かせたという。政務は、外伯父の摂政近衛基実と邦綱が表向きを取り仕切った。基実は1166年に亡くなり、父院からも摂政からも支えを受けられなくなった六条天皇は、名ばかりの存在になった。政治の実権を奪われていた後白河院は平清盛と手を結び、甥から叔父へという不自然な皇位の継承が実現した。

在位2年8か月で、1168年3月30日(仁安3年2月19日)、祖父後白河上皇の意向により、叔父の憲仁親王(高倉天皇)に譲位し、歴代最年少の上皇となった。その後は後白河院のもとで庇護されたが、これは、六条院が反対派に担がれるのを防いで、自分の院政を安定させるための措置だったとみられる。元服もしないまま、1176年8月23日(安元2年7月17日)、数え13歳(満11歳8か月)で崩御した。死因は赤痢といわれる。后妃も子もなかった。陵は、京都市東山区の清閑寺陵とされている。かつては高倉天皇陵と同じ場所とされていたが、近世になって谷森善臣の考定により、竹やぶに定められた。

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