HISTORICAL PERSON · 1172年没

ヘーマチャンドラ

ジャイナ教白衣派の僧侶・詩人・学者で、「カリ・ユガの全知者」と称された。クマーラパーラ王をジャイナ教に改宗させ、『63偉人伝』や文法書を著し、韻律書ではフィボナッチ数に通じる規則も述べた。

生涯
1172年没
死亡地
インド(Gujarat)
出生地
インド(グジャラート州 / ダンドゥカ)
出典
世界地図
インド(グジャラート州)

伝記

ヘーマチャンドラは、1087年から1089年のあいだに生まれ、1172年に没した、ジャイナ教シュヴェーターンバラ派(白衣派)の僧侶で、詩人、学者である。著述の範囲が当時の学問のあらゆる方面に及び、その知識の広さから「カリ・ユガの全知者」の称号を得た。同名のジャイナ教徒の著述家がもう1人いるため、区別のために「アーチャーリヤ・ヘーマチャンドラ」と呼ぶことがある。

現在のグジャラート州のダンドゥカに、ジャイナ教徒の商人の子として生まれた。父はチャーチガ、母はパーヒニで、生まれたときの名はチャンガデーヴァといった。幼いころ、ジャイナ教の僧デーヴァチャンドラ・スーリがダンドゥカを訪れ、少年の知性に感心した。母と母方の叔父は、父の反対を押し切って、少年がその弟子になることに賛成した。デーヴァチャンドラは少年をカンバートへ連れて行き、土地の知事ウダヤナの保護のもとに置いた。息子を連れ戻しに来た父は、そこで受けた親切な扱いに感激して、息子をデーヴァチャンドラに任せることにした。数年後、少年は僧として得度し、ソーマチャンドラと名を改めた。宗教的な論議、哲学、論理学、文法を学び、ジャイナ教とそれ以外の聖典に通じるようになり、21歳でラージャスターンのナゴールでアーチャーリヤの位を授けられ、ヘーマチャンドラ・スーリと名乗った。

当時のグジャラートはチャウルキヤ朝が治め、都はアナヒラヴァーダ(パタン)にあった。僧は年のうち8か月を托鉢で過ごし、雨期の4か月は1か所にとどまるため、ヘーマチャンドラはその期間にパタンで暮らして、著作の多くをそこで書いた。1125年ごろ、ジャヤシンハ王に紹介され、まもなく宮廷で頭角を現した。王が都の通りを通りかかったとき、若い僧が即興で詠んだ詩に感心したと伝えられる。1135年にジャヤシンハがマールワーを征服し、ボージャ王の写本を持ち帰った。そのなかのサンスクリット文法の書に感心した王は、宮廷の学者たちに、同じくらい平易で明快な文法書をつくるよう命じた。ヘーマチャンドラは、カシミールから最良の文法書8冊を取り寄せるよう頼み、それらを研究して、パーニニの文法書にならった新しい文法書をつくった。王と自分の名をとって『シッダ・ヘーマ・シャブダーヌシャーサナ』と名づけた。全8部のうち第1部から第7部はサンスクリット文法で、最終部はプラークリットの記述にあてられている。喜んだ王は、この書を象の背に載せて都の通りを行進させたという。

1143年にジャヤシンハが没すると、跡を継いだクマーラパーラ王は、最初はシヴァ派だったが、ヘーマチャンドラの教化でジャイナ教に改宗した。クマーラパーラの庇護のもとで、グジャラートではジャイナ教が栄え、文化の中心となった。ヘーマチャンドラの代表作には、ジャイナ教の重要人物の伝説を述べる叙事詩『63偉人伝』があり、クマーラパーラの要請で書いた『離欲者の賛歌』や、教訓詩『ヨーガシャーストラ』もある。1150年ごろの韻律学の著書『チャンドーヌシャーサナ』では、音節の組み合わせの数がフィボナッチ数に従うことを、レオナルド・フィボナッチより早く記した。論理学の書『プラマーナ・ミーマーンサー』は未完に終わり、語彙集『アビダーナ・チンターマニ』なども編んだ。1172年に没した。

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