伝記
ミーラー・バーイーは、インドの詩人であり聖人で、ミラバイとも呼ばれる。16世紀のヒンドゥー教の神秘主義詩人で、クリシュナの信者でもあった。北インドのヒンドゥー教の伝統では、バクティ運動を代表する聖人として広く慕われている。彼女の名で伝わる讃歌集(パダーヴァリー)は、現在もインド各地で愛唱されている。1498年頃、ラージャスターン州のクダキに、ラージプートの小さな王国メールター王家の王女として生まれた。ラージプートは尚武の気風が強く、武人としての誇りが高い種族で、氏族を単位とする大小の王国を建てていた。
母ヴィール・クマリは彼女が生まれてほどなく亡くなり、クリシュナ信仰に篤い祖父に育てられた。少女時代には馬術、音楽、弓道、宗教、行政を修めたという。1516年にラージプートの強国メーワール王国の皇太子ボージラージと取り決めの結婚をし、夫は1518年にデリーのスルタン朝との戦いで傷を負い、1521年に没したとされる。嫁いだ後まもなく皇太子は戦死したともいわれる。1527年、義父のラーナー・サーンガーは、ラージプートの諸王を率いてカーヌワーでムガル帝国のバーブルと戦って大敗し、この戦いでミーラーの父は戦死した。サーンガーも重傷を負い、翌年に死んだとされる。
失意のミーラーは、幼いころから馴染んでいたクリシュナ信仰へ深く傾き、クリシュナを熱愛して崇める詩歌を次々に作った。それは亡き夫をクリシュナに重ね合わせたからだという。子はなく、後ろ盾だった父と義父も失って、婚家で孤立し、様々な迫害を受けるようになった。伝説によれば、婚家の人々は幾度も彼女を殺そうとしたという。甘露だと偽って毒の杯を送り、花の代わりに蛇の入った籠を送ったが、彼女は無事で、蛇はクリシュナの像や花輪に変わったとされる。別の話では、当主のヴィクラム・シンに入水を命じられたが、水に浮かんだだけだったという。だが、彼女に触れる現存最古の三つの記録は、没後150年以内の17世紀のもので、子供時代や結婚のいきさつ、迫害した人々が婚家の者だったのかも記していない。研究者ナンシー・マーティン=カーショーは、迫害の原因は宗教や社会の慣習よりも、ラージプートの王国とムガル帝国の政治的混乱や軍事衝突だった可能性が高いと述べている。
その後、ミーラーはチットールガルを抜け出して行者となり、実家のメールターに戻り、クリシュナの聖地ヴリンダーヴァンに移って、最終的にクリシュナゆかりの地ドワールカーにたどり着いた。1546年頃に同地で亡くなったとされる。その最後については、信仰するクリシュナの神像に吸収されたなど、いくつかの伝説が伝わり、1547年に義弟の毒を受けたのちに神像に融け入って姿を消したという伝えもある。
伝統のうえでは、彼女の名で数百万の讃歌が伝わるが、学者が真作とみなすのは数百編にとどまり、二編を除く大半は18世紀になって初めて書き留められた。ヒンドゥー教では下層とされる女性でありながら、彼女の作品はクリシュナ信仰文学の重要な一角を占め、生まれやカーストによらず信仰心が救済をもたらすとするバクティ運動の象徴とされる。チットールガルの砦内など、彼女を祀る寺院もある。
同じ年に亡くなった人物
- Jeremias I of Constantinople (1546年)
- エルンスト1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1546年没)
- アン・アスキュー (1546年)
- ペトゥル・ラレス (1546年)
- アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ (1546年没)
同じ地域に関係する人物
- エラ・バット (2022年没)
- ファルーク・シェイク (2013年没)
- Begum Akhtar (1974年没)
- ランジットシンジ (1933年没)
- Karamchand Uttamchand Gandhi (1885年没)