HISTORICAL PERSON · 1917年没

エミール・アドルフ・フォン・ベーリング

ドイツの医学者・実業家。軍医としてヨードホルムの殺菌性を発見し、コッホの助手を経て、北里柴三郎との共著論文などでジフテリアの血清療法を研究し、1901年に第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞した。

生涯
1917年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ヘッセン州 / マールブルク)
出生地
ポーランド共和国(ワヴィツェ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ヘッセン州)

伝記

エミール・アドルフ・フォン・ベーリングは、1854年3月15日、西プロイセンのハンスドルフ(現ポーランドのウァヴィツェ)に生まれたドイツの医学者、実業家である。1901年に「ジフテリアに対する血清療法の研究」で、第一回ノーベル生理学・医学賞を受賞した。父は学校の教師で、13人の子供がいた。生家が大変貧しかったため、学費のいらない軍医の養成機関、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム学院で1874年から1878年まで医学を学んだ。入学は主に経済的な必要からだった。在学中に、ヨードホルムの殺菌性に関する初期の研究を行った。卒業後は視神経と毛様体に関わる手術についての研究で医学博士の号を得た。州の医師試験にも合格し、マールブルク地区で開業する資格を得た。

国家の費用で学んだ学期ごとに、一年間、軍医として服務する義務があり、合計2年にわたって、1881年から1883年に第2軽騎兵連隊で務めた。1878年には、兵役の義務の一環としてポーランドに配属され、敗血症について調べた。この経験は感染症と創傷の病理の理解を深めた。勤勉さが目に留まり、プロイセンに戻され、ロベルト・コッホのもとで、帝国衛生局の研究室で衛生学を学んだ。創傷に有効な殺菌薬を検討し、実地で試したヨードホルムの殺菌性の発見は、医務局の評価を高めた。そのため研究者として、薬理学者ピングのもとに送られた。ポーゼンのヴィヘルキエヴィチの病院での眼科の研究も、あまり知られない初期の業績である。

1884年にフリードリヒ・レフラーがジフテリア菌の純粋培養に成功した。当時のジフテリアは、感染すると死亡率が40%にも達し、一刻も早い治療法の確立が望まれていた。当初は薬物による殺菌を試みたが、効果は上がらなかった。そこで、感染しても死なない者もいることから、血液中に殺菌を行う化学物質があると考え、これを、コッホの原則に基づいて純粋培養し、感受性のある宿主に接種できないかと考えた。1890年に北里柴三郎と共同で、ジフテリアと破傷風に対する「抗毒素」を作り出したと報告した。モルモット、ヤギ、ウマにジフテリア毒素や破傷風毒素を注射する実験によるものだった。同年12月4日の『ドイツ医学週報』第49号に、北里との共著で発表し、第50号ではジフテリアのデータを、北里との共著ではなく、自分の名前だけで発表した。

1892年にベーリング株式会社を設立した。1895年にはマールブルク大学の衛生学教授と衛生学研究所長に就任した。1896年、24歳年下のエルゼ・スピノラと結婚した。1901年にはノーベル賞を受賞し、同じ年にプロイセンの貴族に叙せられて、「フォン」を名乗るようになった。受賞に際して、自分だけの功績ではなく、共同研究者の北里柴三郎あっての結果だと述べたとされる。北里が受賞できなかった理由には、ベーリング単独名の論文があったこと、血清療法の着想はベーリングのものと見なされたこと、賞創設後最初の選考で共同授賞の考えがまだなかったことが挙げられる。人種差別が原因だったとも言われるが、選考委員会は否定している。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、93人のマニフェストにも署名した。1917年3月31日に死去した。「子供たちの救い手」と呼ばれ、没後に「エミール・フォン・ベーリング賞」が制定された。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物