伝記
マルカム4世は、1142年3月20日に生まれたスコットランド王である。父はデイヴィッド1世の次男ハンティンドン伯ヘンリー、母はサリー伯ウィリアム・ド・ワーレンの娘エイダで、その長男にあたる。弟にウィリアム1世とハンティンドン伯デイヴィッドがいる。「未婚王」とも、「大頭」とも呼ばれた。1152年に世継ぎだった父が死に、マルカムは祖父の跡取りとなった。ファイフ伯ダンカンの保護のもと、ケルトの慣習に従ってフォース湾以北のスコットランドを巡り、跡継ぎとしての地位を示した。
1153年に祖父が没すると、反対を受けずに王位を継ぎ、祖父の死の3日後にスクーン修道院で戴冠した。11歳とも12歳ともいわれ、正式な摂政は置かれなかったが、実際の政務は、大執事ウォルター・フィッツアランや、コンスタブルのヒュー・ド・モルヴィルら、大法官や司教たちが担ったらしい。即位まもなく、ノルウェー王エイステイン2世が北東部のアバディーンを襲い、北部ハイランドの豪族が背いた。アーガイル領主ソマーレッドと、王位をねらって捕らわれていたマルカム・マクヒースの子らも反乱を起こした。1156年にドナルド・マクヒースがホイットホーンで捕らえられ、翌年に王とマクヒース家は和解した。味方を失ったソマーレッドも1159年に和平を結んだ。
1154年に即位したイングランド王ヘンリー2世は、デイヴィッド1世が奪ったイングランド北部の返還を求めた。マルカムはこれに屈し、1157年にハンティンドン伯領と引き換えに、ノーサンバーランド、カンバーランド、ウェストモーランドの領有権を放棄した。弟ウィリアムには、ノーサンバーランド西部の小さな領地が与えられただけだった。三つの州の領主だったウィリアムは、ヘンリー2世の圧力でこれを失った恨みを忘れず、のちに奪い返すことに執念を燃やした。その後、カーライルで会った二人の王は、不一致のまま別れた。ヘンリー2世は自らマルカムを騎士に叙任することも拒んだとされる。
1159年、マルカムは弟ウィリアムとともに海峡を渡り、ヘンリー2世のトゥールーズ伯領への遠征に加わった。ポワティエで軍と合流し、ペリグーでヘンリー2世から騎士に叙任された。この年、セント・アンドルーズ司教ロバートが没し、後任にケルソー修道院長アーノルドが選ばれた。1163年にはリチャードが司教に選ばれ、ヨーク大司教の主張は退けられた。マルカムのイングランドへの態度を屈辱と受け取ったスコットランド貴族たちは、南西部などで反乱を起こした。成長したマルカムはこれに立ち向かい、1160年から1164年にかけて、祖父が登用したノルマン人貴族に北部を討伐させ、ギャロウェイも併合して豪族たちを抑えた。しかし1165年12月9日、病により23歳で没した。独身で子はなく、王位は弟のウィリアム1世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- イシュトヴァーン4世 (ハンガリー王) (1165年没)
- イドリースィー (1165年没)
- シビーユ・ダンジュー (1165年没)
- 二条天皇 (1165年没)
- アルキポエタ (1165年)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・モンタギュー・ダグラス・スコット (第7代バクルー公爵) (1935年没)
- チャールズ・トムソン・リーズ・ウィルソン (1959年没)
- ボビー・ジョンストン (2001年没)
- ステラ・テナント (2020年没)
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