伝記
二条天皇は、1143年(康治2年)7月30日に生まれた第78代の天皇である。諱は守仁といい、雅仁親王(のちの後白河天皇)の長男にあたる。母は懿子で、出産の直後に急死したため、守仁は祖父の鳥羽法皇に引き取られ、その后の美福門院に育てられた。近衛天皇が即位しており、同じ美福門院の養子には崇徳上皇の長男の重仁親王もいたため、皇位を継ぐ望みは薄く、9歳で覚性法親王のいる仁和寺に入って僧となる道に進んだ。仏典をよく読みこなし、「ちゑふかくおはしましけり」と評判になった。仁平3年(1153年)9月、近衛天皇が重い病になると、関白の藤原忠通が雅仁親王の子への譲位を鳥羽法皇に願い出た。法皇はこれを退けたが、この時から守仁は皇位継承の候補の一人に浮かんだ。
久寿2年(1155年)7月に近衛天皇が崩御し、重仁親王、守仁、暲子内親王が後継の候補に上がったが、守仁が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王が29歳で即位した(後白河天皇)。守仁はまだ年少で、生きている実の父を飛び越えての即位に異論があったためである。8月に仁和寺から戻り、9月に親王宣下を受けて「守仁」と名づけられ、即日立太子した。12月に元服し、翌年3月には美福門院の皇女の姝子内親王を妃に迎えた。美福門院の全面的な支援を受けていた。保元3年(1158年)8月11日、後白河天皇から譲位を受けて践祚した。
天皇を支える藤原伊通、大炊御門経宗、葉室惟方らは二条親政派をつくり、後白河院政派との対立が始まった。実の父の後白河上皇とは冷淡な間柄だった。平治元年(1159年)12月に平治の乱が起きると、親政派は平清盛を引き込み、天皇は清盛の六波羅邸へ行幸した。これにより藤原信頼の一派は賊軍となり、清盛らが勝利を得た。乱の直後、天皇は美福門院の八条邸に行幸し、翌正月に太皇太后の藤原多子を入内させた。しかし3月に経宗と惟方が上皇の命で配流され、8月には姝子内親王が病で出家し、11月には後見の美福門院が死去して、親政派の要人が次々に消えた。
天皇が頼みとしたのは、藤原伊通と平清盛だった。伊通は太政大臣として天皇を補佐し、意見書『大槐秘抄』を著した。応保元年(1161年)9月、後白河上皇の皇子(のちの高倉天皇)を皇太子にしようとする陰謀が発覚すると、天皇は上皇の近臣の平時忠らを解官した。実権を握った天皇は、押小路東洞院の内裏に政の拠点を置き、清盛に警護させた。12月には暲子内親王に八条院の院号を与え、藤原育子を中宮に立てて、関白の近衛基実とも結んだ。応保2年(1162年)には叔父の経宗を召還し、天皇を呪詛した時忠らを配流した。悪僧や神人の統制や荘園の整理にも取り組んだ。上皇は蓮華王院を造営し、供養の日の天皇の行幸を望んだが拒まれ、恨みを抱いたという。
長寛3年(1165年)2月に伊通が亡くなり、天皇も病に倒れた。6月、前年に生まれた実子の順仁親王(六条天皇)を皇太子に立てると、その日のうちに譲位して太上天皇となった。7月28日、押小路東洞院で崩御した。23歳であった。「末の世の賢王におはします」と讃えられた一方、上皇との対立は生涯続き、「孝道には大に背けり」という世評もあった。
同じ年に亡くなった人物
- イドリースィー (1165年没)
- イシュトヴァーン4世 (ハンガリー王) (1165年没)
- マルカム4世 (スコットランド王) (1165年没)
- シビーユ・ダンジュー (1165年没)
- アルキポエタ (1165年)
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