HISTORICAL PERSON · 1164年没

藤原忠通

平安後期の公卿・歌人。鳥羽から後白河まで4代の天皇のもとで摂政・関白を務めた。父忠実や弟頼長との対立が保元の乱の一因となり、平治の乱後に一時復権。直系子孫は五摂家として摂関職を独占した。

生涯
1164年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

藤原忠通は、平安時代後期から末期にかけての公卿で歌人である。関白藤原忠実の次男で、幼名は威徳丸、通称は法性寺関白という。1103年に大江匡房の名付けで忠通と称し、1107年に元服して白河法皇の猶子となった。1114年には、法皇の養女の藤原璋子との縁談が持ち上がったが、璋子の素行に噂があったため、父の忠実が固辞して破談となった。1121年、法皇の勅勘を受けて関白を辞した忠実に代わって藤原氏長者となり、25歳で鳥羽天皇の関白に就いた。その後も崇徳、近衛、後白河と3代にわたって摂政や関白を務め、その期間は37年に及んだ。

長いあいだ摂関家を継ぐ男子に恵まれず、1125年には23歳年下の弟の頼長を養子に迎えた。ところが40歳を過ぎてから、四男の基実をはじめ男子が次々に生まれたため、実子に摂関家を継がせようとして、頼長との縁組を破棄した。1129年には正妻の娘の聖子を崇徳天皇の後宮に入れ、翌年に聖子は中宮となった。1140年に女房の兵衛佐局が崇徳天皇の第一皇子の重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快に思ったという。1150年正月に頼長が養女の多子を入内させて皇后に立てると、忠通も3か月後に養女の呈子を入内させて中宮に立てた。これに怒った忠実と頼長から、忠通は義絶されて氏長者の職を頼長に譲らされた。1153年9月、近衛天皇が重い病で譲位の意思を告げたとき、忠通は雅仁親王の子の孫王への譲位を鳥羽法皇に申し出たが、法皇に謀略とみなされ、忠実にも非難された。

1155年に後白河天皇が践祚し、忠実と頼長が近衛天皇を呪詛した疑いで失脚すると、忠通は復権した。こうした一連の対立が保元の乱の原因の1つになった。乱のあと氏長者の地位は回復したが、宣旨によって任命されたため、藤原氏の自律性は否定された。忠実と頼長の荘園はすべて没官されることになったが、忠通は忠実に迫って、摂関家伝来の荘園と忠実個人の荘園を自分に譲らせ、没収を免れた。ただ、頼長の領地の没官は避けられなかった。政治は信西をはじめとする後白河の側近が主導し、摂関政治の再興にはならなかった。

1158年の賀茂祭で後白河の寵臣の藤原信頼と対立し、閉門に処せられて事実上失脚し、同じ年に関白を嫡男の基実に譲った。忠通は信頼の妹を基実の妻に迎えて取り込みを図ったが、平治の乱では信頼を見限り、父子で反信頼の側についた。乱で信西と信頼が討たれ、朝廷に政務を担う者がいなくなる中で、「大殿」と呼ばれた忠通は一時的に復権し、1161年に天皇が院近臣6名を解官したのちは、天皇と大殿の合意で政治が決まるようになった。1162年に法性寺の別業で出家して円観と号した。晩年は身近に仕えた女房の五条を寵愛していたが、1163年の末か翌年の初めごろに、五条が兄弟の源経光と密通し、それを目撃した忠通は直ちに経光を追い出した。精神的な衝撃もあって、まもなく薨去したという。68歳だった。

詩歌にも長じ、『金葉集』以下の勅撰集に58首が入る。書でも一家をなし、法性寺流を開いた。肉太で、丸みと力強さを兼ね備えた書風である。藤原基衡が毛越寺の円隆寺に掲げる額の揮毫を忠通に依頼した際、奥州藤原氏からの依頼と明かせば断られると考え、仁和寺を通して頼んだという。のちに真の依頼者を知った忠通は額を取り返そうとして失敗した。家集に『田多民治集』、日記に『法性寺関白記』がある。直系の子孫は五摂家として、明治維新まで摂政・関白を独占した。

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