伝記
オディロン・ルドンは、本名をベルトラン=ジャン・ルドンといい、1840年4月20日(4月22日とも)に南フランスの大都市ボルドーで生まれた、19世紀後期から20世紀初期にかけて活動したフランスの画家である。父ベルトランと、クレオールの母マリーの息子で、ファーストネームは父のものを引き継いだが、もっぱら用いられたのは、母の通称「オディーユ」に由来する愛称「オディロン」で、自他ともに終生この名を用いた。裕福な家庭であったが、生後2日目にして、ボルドー近郊のペイル=ルバードへ里子に出され、11歳までの少年期を、寂しい田舎の地で親元を離れて過ごしたとされる。病弱で内向的な性格であったとされ、子供のころから絵を描き始めたが、父の意向もあって、建築家となるべくエコール・デ・ボザールの試験を受けた。しかし合格することは叶わず、建築の道は諦めざるを得なかった。弟のガストンは、のちに建築家となっている。
20歳のころ、植物学者のアルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に魅せられるようになった。のちにルドンが制作した版画には、植物学の影響が見られ、版画集『夢の中で』はクラヴォーに捧げたものである。1864年にパリに出てジャン=レオン・ジェロームに入門したが、数か月でやめて、ボルドーに戻った。そして、放浪のボヘミアン画家として知られた版画家ロドルフ・ブレスダンの指導を受けた。1878年ごろには、アンリ・ファンタン=ラトゥールから石版画の指導を受けている。1870年に普仏戦争に従軍し、1872年からパリに定住した。1879年、初の石版画集『夢の中で』を刊行した。
1880年に、若いクレオールの女性カミーユ・ファルテと結婚した。1882年には、新聞社で木炭画と版画による個展を開催し、ユイスマンスらに注目された。ポーの作品を意識した2番目の石版画集『エドガー・ポーに』も、この年に刊行した。1886年に待望の長男ジャンが生まれたが、生後半年で夭折し、落胆した彼の画風は、以前にも増して鬱々としたものになった。しかし、3年後の1889年に次男アリが生まれて、気を持ち直し、人生模様は一変した。1890年ごろから作風も大きく変化し、豊かな色彩を用いるものになった。1904年に、65歳でレジオン・ドヌール勲章を受け、1913年には、アメリカのアーモリーショーで1室を与えられ、展示した。
印象派の画家たちと同世代であるが、光の効果を追求した彼らと違い、もっぱら幻想の世界を描き続けた。象徴派の文学者らと交友をもち、象徴主義に分類されることもあるが、独自の道を歩んだ孤高の画家というのがふさわしい。初の石版画集の頃から、当時の生理学や科学が投げかけていた、不確かな夢や無意識の世界に踏み込んだ作品を多く発表した。断頭や目玉など、モノクロの版画の作品群は、絶望感もあるが、人間の顔を具えた植物のようなものや、動物のような顔で笑う蜘蛛など、どこか愛嬌のある作品も描いた。鮮やかな色彩を用いるようになったのは、50歳を過ぎてからのことで、なかでも、花瓶に挿した花を鮮烈な色彩で描いた一連のパステル画が知られる。1916年、第一次世界大戦が激化する中、兵士として招集されたアリが消息不明になり、高齢の身で各地を探し回ったが、無理が祟って風邪をこじらせ、7月6日にパリの自宅で死去した。なお、アリはその後、生存が確認された。
同じ年に亡くなった人物
- イシ (1916年没)
- カール・クリントヴォルト (1916年没)
- Aleksandr Voyeykov (1916年没)
- アルベール・ラヴィニャック (1916年没)
- ワシーリー・スリコフ (1916年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャック・ルネ・エベール (1794年没)
- ミシェル・ブラヴェ (1768年没)
- アンヌ・イラリオン・ド・コタンタン (1701年没)
- ギヨーム・ド・ロピタル (1704年没)
- ペトルス・コメストル (1179年没)